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僕の昭和スケッチ

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「僕の昭和スケッチ」は、昭和レトロを描いたライフワークです。誰の心にもある遠い日の思い出を描いていければと思っています。毎週月曜に更新しています(祝祭日を除く)。私の出身地(美濃… もっと読む
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記事一覧

「母と伊勢海老」信心と殺生

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ235枚目 ある時、大きな伊勢海老が我が家にやってきた。 客が土産に持って来てくれたもので、「塩茹でにするだけでええでね」と客は言って帰った。昭和30年半ば頃のことだろうか。 客が帰った後でお袋は言われた通り、大鍋に水を張り伊勢海老を入れるとガスに火をつけた。 湯が温まってくると、伊勢海老は苦しいので鍋の中でガタガタと鍋を揺らして飛び出ようとする。お袋は,「そうはさせじ!」と上から力一杯鍋の蓋を抑える。 鍋の中で苦しむ海老を哀れと

「超能力者は実在するか?」スプーン1本で世界を騒がせた男ユリ・ゲラー

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ234枚目 昭和の御代にスプーン一本で世情を騒がせた人物、ユリ・ゲラー。 「彼は本当の超能力者だ・・・!」 「いや、いや、あれは単なるマジックだ!」 彼の登場によって沸き起こった超能力ブーム。1870年代後半だ。 瞬く間にユリ・ゲラーは時代の寵児となった。 さて、ではユリ・ゲラーとはそもそも一体どんな人物だったのだろう? 今なら検索すれば立ち所に彼の経歴が分かる。だが、当時は無論今のようなネット社会ではなく、情報は非常に限られた物だっ

「屋根の上の鳩舎」昭和鳩ブーム

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ233枚目 昭和に鳩ブームと言われる時代があった。 クラスにも必ず鳩を飼っている子どもがいて、市街地でも鳩小屋がある家が見られた。昭和30年代から40年代にかけてのことだ。 だが、当たり前のことだが町中の家では鳩舎を置く場所もなく、今思えば随分危険な場所に置かれている場合もあった。 屋根の上の、しかもとても安全とは言えない場所だ。 クラスメイトが鳩を飼っていると言うので、行って驚いたのを覚えている。 「今度鳩レースに出すんや! 

水筒の思い出

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ232枚目 上の絵に描かれている水筒は、僕が幼稚園の頃に実家にあった水筒だ。 戦時中に使われていた水筒で、戦地に赴く兵隊の装備品でもあった。 古い日本映画にもよく出てくるものだ。 幼稚園の頃になると遠足という行事が始まり、僕も母親にこの水筒を持って行くように言われるのだが、さすがに戦後10年程経ってから生まれた僕らには古臭く感じられ、ディズニーのミッキーマウスなどの絵柄などの入った当時流行り始めた魔法瓶水筒をねだって買ってもらったこと

「なめ猫ブーム」かわいそうな猫達

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ231枚目 ナメ猫ブーム、昭和50年代。 子猫たちに暴走族ファッションを着せてバイクの横に立たせて・・・ 「ナメンナヨ!」 そんな写真が大人気だった。 ナメ猫免許証とかナメ猫バッジとか・・・売れに売れた時代だ。 けれど、正直言ってナメ猫写真を見るたびに僕は心が曇る。 『そんな事をしなくても、猫達は素のままで十分可愛いのに・・・』 あの時もそう思ったし、今もそう思う。 人間というのは、つくづく罪な生き物だ。 <ちなみに、下はn

「竹の子族現る!」原宿ファッションs55

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ230枚目 「竹の子族」なる若者達が原宿歩行者天国に出現したのは昭和55年。 派手な服装でディスコサウンドをバックに彼らはちょっと奇妙なステップダンスを踊り原宿名物になった。竹の子族に憧れる若者達も次々に現れ、マスコミも大いに賑わせたものだ。もちろん、彼らに眉を顰める大人達もいた。 僕にとって竹の子族というのは、上のイラストのような感じだ。 個人的には別段竹の子族が好きとか嫌いは無く、世代差があってか、この竹の子族の奇抜なファッション

「給食ソフト麺」豊かになっていく日本

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ229枚目 <学校給食> 僕らの時代の給食はそんなに美味しいものではなかった。 脱脂粉乳のミルク*が出されていた時代だ。 途中でチーズなるものが登場するが、これも臭くて石鹸のようだった。今の美味しいチーズとは似て非なるものだ。戦後の僕ら貧乏小僧を救おうと奮闘してくれた大人達には大変申し訳ないのだが、この脱脂粉乳とチーズは僕らを苦しめた二大悪魔だった。もう昼休みなのに、臭いチーズを細かく割って少しずつ飲み込んでいた女の子もいた。残すこと

「フランスキャラメルはジェンダーフリー」

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ228枚目 不二家さんの名誉のために最初に言っておくが、フランスキャラメルは女子だけのキャラメルだった訳ではない。 もちろん、男子も買ってオッケー。 ジェンダーフリーだ(笑) でも、正直って僕は子供の頃にこのフランスキャラメルを買いづらかった思い出がある。 そりゃあ、なんて言ったってこのパッケージ! いかにも「女子!」 だよね(笑) 店内に並んでいるこのフランスキャラメルを手にして、恥ずかしそうに店のおばさんの所に持っていったの

ボーリング場がピカピカに光っていた時代

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ227枚目 1970年代の日本は大ボーリングブームだった。 猫も杓子もボーリング、というくらいに流行った。 中には高価なマイボール、マイバッグ持参の強者も出現した。 当時高校生だった僕らには高くてとても無理だったが、、、(笑) それでも、高校の仲間と小遣いを叩いてボーリング場に出かけた。 彼女(♡)とも行ったのさ(笑) この数年前まで僕らは、空き地や公園で三角ベースをやっていた。ボールはソフトボール。安物のグローブとバットを持って泥

うなぎ屋なのに何故「なまずや」?

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ226枚目 岐阜市の柳ヶ瀬に、昔「なまずや」という名の鰻屋があった。 店の名前が珍しい事や、家からすぐ近所、ということも手伝って、どんな店なのだろうと興味津々だったのを覚えている。開店した頃は尚更だった。 『ナマズを出す店なんかな、、でもナマズって食えるんかな、、??  ちょっと不気味やな・・・』 と。 店の前を通るたびにそれとなく中を窺うのだが、鰻を焼くあのいい匂いにうっとりするばかりだった。 『いい匂いやなぁ〜〜〜 ナマズと鰻

続/レトロで可愛い昭和マッチたち

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ225枚目 以前にお届けした「昭和マッチ」の第二弾です。 昭和のマッチはデザインが可愛く、レトロ感もあり、マッチの絵を描くのがすっかり楽しくなってしまいました(笑) 絵の中央付近に書いたのはラブホテルのマッチ。 こういった類のものを持って帰ると、災いの方が多いように思うのですが、、、、(笑) 黄色いカナリアのマッチなどは、定番で同類のデザインのものが全国に幾つもあったのでは? 調べてみると黒ネコも酒場のマッチにたくさん登場している。

「四畳半フォークと呼ばれた時代」昭和の歌

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ224枚目 この記事は、先日の「フォークギター1本あれば/昭和の歌」の続きです。 大学紛争や反戦運動も終わりを告げた頃に僕らは上京した。 わずか数年前の事なのに、若者たちが引き起こした新宿フォークゲリラ(1969年)などまるで嘘のように静かな新宿の街だった。駅の構内にはTVで見たような反戦ビラを持った若者の姿はなく、京王デパートの前に手製のネックレスや安っぽい革製品を売るフーテン*が座っていた。流行りのロングベストを着て。 さて、一世

「シベリアケーキは何故シベリアケーキ?」

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ223枚目 シベリアケーキは羊羹、もしくは餡子をカステラで挟んだ和製洋菓子。 三角形のものと四角のものがある。 誕生は明治後期から大正とされるがはっきりとした記録はない。 このお菓子、昭和の初期には子どもたちが食べたいお菓子No.1だったというが、僕の子供の頃、つまり昭和30年代では既にこのお菓子はどこかレトロなお菓子という印象だった。 誰かのお土産でこのケーキを貰うと、お袋は言ったものだ。 「あれ、懐かしい。シベリアやね!」 と。

「フォークギター1本あれば」昭和の歌

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ222枚目 昭和フォークブームは1963年頃から始まる。 所謂第一次フォークブームだ。 森山良子、マイク真木らが代表選手で、お金持ちのお坊ちゃん、お嬢さんの上品な音楽と言う印象が強い。 フォークが一大ブームになったのは、やはり1968年頃から始まった第二次フォークブームかと思う。第一次の頃と大きく違うのは、基本的に自分で作詞作曲した歌を歌う、と言う点だ。業界のプロの作詞家/作曲家ではなく、アマチュアの自分達が歌を作ると言う姿勢がより鮮