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恩師と呼びたかった先生

こんにちは。mywayのμ(ミュー)です。

中学校は陸上部に入りました。同時期に入った女子は5人。

長距離も短距離もまぁまぁ早かった私でしたが、たった5人であってもどちらも2番手。駅伝にもリレーにも駆り出されるってすごいことだったとは思うのですが、それぞれにエースがいるわけでいわゆるモブキャラ。

そんなこともあり、3年の先輩が一人しかやっていなかった高跳びを専攻。背面飛びの後、マットの上から眺める空がとてもキレイで好きでした。

身長があるのが功を奏して、地区陸を通過し2年生の時、県大会へ行くことができましたが。しかし、県大会でのスタートの高さが私の自己ベストより5センチ高く。制限時間いっぱい使っても勇氣が出ず、一度も飛び込むことができずに終わった苦い思い出となりました。

生徒数の多い学校でしたが、顧問の先生は1年と3年の担任でもありました。とても熱血な30代の男の先生。ずっとヨットをやってきて陸上を教えるのは私たちが初めてということで、陸上の教本片手に一生懸命指導してくれました。

そんな熱い先生が、同学年の不良たちを自分が何とかすると、陸上部に入部させたのが中学2年の時。学校一の不良女子はマネージャーとして顔を出すようになりました。先生はその子たちの対応に追われ大変そうでした。

目を付けられないようにおとなしくしていたつもりの私ですが、ある日、後輩のリンチをするから見に来ないかと誘われ、断れる雰囲氣ではなかったため行くことに。体育座りで何人もの見学者がいたのですが、後日、学年主任の先生に呼び出されたのは私だけ。なぜなら、私だけジャージにちゃんと名札が縫い付けられていたから。

色々やるせない思いが募り、その後、陸上部を辞めました。
そして、顔も名前も知らない後輩でしたが、見ず知らずの私が立ち会ってしまい本当に申し訳なかったです。

私は、先生に見てもらえなくて、ただただ寂しかったんですよね。

そんな先生は、私たちが卒業すると同時に退職され、地元の和歌山に戻り小学校の先生となられました。不良生徒から殴られてしまったこともあり、先生にとって本当に大変な3年間だったと思います。
にもかかわらず、退職時の保護者懇親会で「μをしっかりと見てあげられなくて、申し訳ないことをした。」と母に謝ってくれたそうです。

その話を聞いたのはつい数年前。

お母さん、そういう成長過程にとって大切なことはその時に教えてね?

今さら会いに行ったところで、先生は覚えているかもわからない大勢の生徒の中のひとりですが、夢に先生が出てくることがたまにあります。
そのたびに会いたいなぁと思います。

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