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相手の望みには自分の幸せも含まれているらしい

誰かが困りごとを口にするとき、その原因は自分にあると思っていた。

相手は私を責めているわけではない。こちらも、相手に責められているという感覚はない。ただ、相手が傷ついたとか、限界まで耐えていたということを初めて知って、血の気がサッと引く感じがするのだ。

そして自分が至らなかったのだと勝手に解釈して悔しくなり、「もっと早く率直に指摘してくれればよかったのに」と一瞬責任を回避しかけて、「でも相手がそう言える環境を作らなかった、つまり気を遣わせてしまった自分がやっぱり悪い」と考える。そして、今までどうするべきだったのか、今後どうするべきなのかを考え始める。

これが完全に間違った方法だとは言えないが、「他人が苦しんできた原因が100%自分にある」と100回中100回思い込むのはしんどい。自分が知らない間に他人がどんな苦しみを味わっていたのかをと想像すると、眠れなくなったりもする。相手のためには、もう自分は一緒にはいるべきではないとすら感じる。

でも相手のこれまでの態度や話を総合的に考え続けてようやく、自分の認識が歪んでいたらしいことに初めて気が付いた。

自分は、「わたし」と「あなた(たち)」をひっくるめた「わたしたち」の幸せを考えていなかった。

大抵の友人は自分に対して、無理なく一緒にいてほしいと願ってきたようだ。それなのにこちらは、嫌がられているのではないかと遠慮したり、逆に、普通に仲良くしなければと恐怖心を押し殺して近づいたりしていた。相手の優しさを完全に誤解していた。自分のペースで人付き合いすればよかったのに、時間とエネルギーを無駄に費やしてしまった。誰のためにもならなかった。

つまり、相手はこちらの出方を柔軟に受け止めようとしてくれていたのに、自分は相手のペースに合わせすぎてつらくなったり、(かつ・または)相手に合わせたつもりで全然合っていなかったりしたようだ。なお後者のように、相手の希望を聞かずに良かれと思って勝手に突き進むのはハラスメント・加害である。

自分はずっと無理をしていた。滅私することで何か少しでもいい方向に変わると無意識に考えていたのだと思う(それが幼少期の生存戦略だったから)。そんなことだから、トラブルが起きたときに「滅私したのに相手が幸せじゃないのは、自分の努力が足りないか努力の方向性が間違っていたんだ」とショックを受けて、より一層自分を殺して相手に尽くそうとしてしまうのだろう。

滅私をやめなければならない。相手の力になりたいと思うことや、相手が嫌がらない範囲で相手のために行動を起こすこと自体は間違っていないだろうが、相手だけでなく自分も、本当の意味で幸せでなければ意味がない(このような論理は頭では理解していたが、現実と照らし合わせるまでは腑に落ちなかった)。

さて、しかしその具体的な方法はまだわからない。少なくとも、自分を犠牲にして相手の意向に完全に合わせようとするのはやめなければならない。むしろ、相手の意向の中に実は「私にも快適でいてほしい」という思いがある可能性を意識して、接していく必要があるだろう。だからまずは相手からの思いやりに気づいてありがたく受け取り、相手の希望と自分の感情を認識した上で、お互いが幸せでいられる方法を模索していかなければならない。すぐにできるようになるわけがないので、焦らずに忍耐強くやっていきたい。

未来にはこの考え方を改める日が来るかも分からないが、今はそれに気づかせてくれた友人たちに感謝したい。

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