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消しさった


所用があり、実家に帰ってきていたのだけれども、どうも実家は息苦しい。
それは、わたしが中高と、もがき苦しみ、やがて壊れていった気配がそのまま残っているからだ。
意味も分からず嫌われ、それをいじめだとは認めたくなくて、歯を食いしばりながら横になっていたベッド。
長く学校を休み、明日こそはちゃんと登校しなくてはと、脅迫観念に襲われたまま見つめた天井。
このまま飛び降りれば楽になれるかもと掴んだベランダの手すり。

帰省の初日は実家の家族に会えた喜びで、幸せな気分になれるのだけれども、家全体に怨念のような気持ちが染みついているからか、実家に帰り、一日二日と経つと不思議と体調が悪くなってくる。
わたしはそれが悔しくてたまらない。
中高の当時に、いろんなことが上手くいかなかったことは、思春期特有のものとして受け流せる(流したくはないけど)
だが、それから10年以上も経った今に、なぜそんな気持ちにならなくてはならないんだ。
大学でどんなに素敵な人間関係に恵まれて、学校外で大好きな友人たちに出会えたとしても、塗りつぶされたようなあの頃はこころに残り続けるのだ。

以前から母は、帰省したついでに、と、部屋に残している荷物の整理をするように言っていた。持ち主のいない部屋に残されたものなんて、現在住んでいる家族からしたら、邪魔で仕方のないものだろうし、それは至極当然だ。
だけど、そこに埋まっているのは地雷。時限爆弾。触りたくないもの。
わたしはなにかと理由をつけては、その片づけを避けてきた。

だが、とうとう今回の帰省でわたしの時限爆弾たちは、空箱にまとめられ、その中身を確かめるようにと日のもとに晒されていた。
そうなっては、仕方がない。下手に目の前にずっとこんなものを置かれていると発狂しかねないし、頑張って克服した自傷癖が戻ってきてしまう。
とてもとても嫌で仕方がなかったけれども、その中には大切にしてきた本やアクセサリー、ポエム交じりの手紙なんかも混ざっていたので、わたしはそれらを守るためにも爆弾の撤去作業を始めた。

様々な大小の爆弾を撤去していく中で、今回一番わたしのこころを抉ったもの。
それは、クラス制作の文集だった。文集と言っても、作文が載っているようなものではなく、クラスの人間それぞれが手書きのプロフィールを書き、思い出やら、担任への感謝の気持ちをつづったものなのだが、これがむせ返る程、当時の空気をまとっていた。
「あいらぶ○組」と頭の悪そうな表紙があり、それぞれのページには当時はやっていたギャル文字が並ぶ。
「あれ?こんなに馬鹿そうなところに所属してたって?」というほどに、中身は誤字脱字が多く、内容が低俗。ここには書けないようなことが平気で書いてあるし、なんなら個人の顔写真を使った下品なコラージュや、当時クラスや学年で付き合っていたカップルのまとめ、ペア写真「○○夫婦♡」なんて、すぐにあの後別れた当人たちが見たら死にたくなるだろうなというものまで並んでいて、この記事の掲載を許した担任のセンスを疑った。

こんなもの、読んでも嫌な気持ちになるだけなのに。頭では分かっているのにページをめくってしまう。嫌いな名前、嫌いな名前、大嫌いな名前。この前の帰省で子どもと旦那を連れて歩いていた大嫌いな名前。並ぶのはそんなのばかり。


だんだんたまらなくなったわたしはあるページを破いた。一番嫌いな名前。
するとどうだ、記憶の中のそいつさえもびりびりに破けるような気がして大変気持ちが良かった。とんでもない快感。
続いてあの子、この子、あいつ、こいつ。びりびり破った。ばっかじゃないの。クズだったよね。当時言ってやりたかった暴言を吐きながら、紙を破く。

大好きな友達の分はページを綺麗に外し、ばいばい。といって、折り紙を作った。居たかどうかあいまいな人たちは適当にはずして丸めてぽい。
最後らへんにあるどうでもいいアンケートページと、ふざけまくったおまけページは、シュレッターにかけた。粉々にして切り刻んで。このふざけた空気が世の中や記憶からなかったことになりますように。半ば祈りに近い気持ちで、わたしは一冊を処分した。
今思えば、お焚き上げのように庭で燃やせばよかったかしら?とも思うが、娘がいきなりそんなことをしては親もさぞ心配するであろうと思い、それは考えなかったこととする

昔、映画か何かで、卒業アルバムを塗りつぶす描写をみて、薄ら気持ち悪い気分になっていたけれども、一冊処分し終えた時の爽快感と言ったらなかった。
あの映画の登場人物に「塗りつぶすより、刻んだ方が気持ちいいよ」と伝えたいくらいだ。

まだまだ部屋には嫌な思い出をまとったものが多く残る。昨晩もうなされたばかりだ。
だけど、今日わたしは、ひとつ消したい過去を消した。嫌だったあの子たちを消した。
とても人にはお勧めできない方法だし、この文章自体も怪文書だけれども、わたしは、これからも生き抜くために、ひとつ山を越えた気がする。きょうはこの満足感を胸に眠りに付けそうだ