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問題提起の女王 -おーえるさん- <前編>

「おーえる」。セミファイナリスト一覧の中で、その名前とビジュアルは印象的だった。
芸能界臭のない、身近にいそうな雰囲気。OL感のある無難なトップスとタイトスカート。平日の昼にどこかのオフィス街に行ったら、財布を片手に同僚女性と「ランチどうしよっかー」と言っている彼女に会えそうだ。私と一番立場が近い人かもしれない。

しかし、PRコメントには、

…ミスiD落ちたし、めちゃくちゃ辛いこともあったから、台湾で働いたんですけど、結局忙しすぎて向いてなさすぎてメンブレしたんですけど、なんとか生きてます。

あたし今、世間的に多分すっごいやばいんですけど、でもまぁいっかって開き直ってます。

とある。OLをやっているなら「世間的に多分すっごいやばい」ことはないはずだが…今どういう状況なのだろうか。

こうなってやっと気づいたんですけどわたしは何がしたいのかって考えたら、「わたしヤバイんだけど生きてるからみんなも生きていいんだよ」って言いたいなって。伝えたいなって。

色々気になったので、私はPR動画へのリンクをクリックした。動画の彼女は、名前の脱力感とは裏腹に、真面目というか切実だった。

「私すごい、怒ってるんですよ」

実はもうOLを辞めていた彼女は、会社員時代に男性上司から受けたセクハラと周囲の無理解について語りながら、涙を浮かべた。そして着ていたOL服を、ハサミで切り始めた。本当に悔しかったであろうことが伝わってきた。
トップスとスカートを切り刻み、タンクトップとデニムの短パン姿になって、「女の子たちに良い未来を遺したい」と抱負を述べる彼女。この人が選考期間中に何をするのか、しっかり見たいと思った。

現在の日本社会は、地位や収入などの点で明らかに男性優位だ。企業や自治体や議会といったような組織の意思決定の場に女性が少ししか加われないことで、社会のシステムに女性の声が反映されにくいように感じる。
また、男性議員が発言中の女性議員に対して差別的な野次を飛ばしたり、痴漢や性犯罪被害に遭った女性に対して「女らしさを強調した格好をしたり、相手に好意があると誤解されるような行動をとった女性にも問題がある」「死ぬ気で抵抗すれば防げたはず」などの的外れなバッシングが起こったりする場面を見る度に、女性を一労働力・一人の人間として尊重しようとしない風潮を感じて嫌な気分になることもある。
(だって路上でバッグをひったくられた人に対して「ひったくりたくなるような歩き方や荷物の持ち方をしていたお前にも問題がある」とか言わないですよね? 盗むことがそもそも悪なんであって。)

#metoo /#wetooの運動が世界的に盛り上がっているタイミングで、もっと女性がフェアに扱われる社会にしてゆこうと訴える彼女は、日本社会に巣食う「女らしさ」「男らしさ」の概念に苦しんでいる人々にとっての(広義での)アイドルになる素質があるように感じた。

社会批判と内省のバランスの良さ

選考期間中、彼女はブログやnote、ツイッターで、沢山の発信をした。もちろん画像よりテキストがメインだ。また、イベントを複数回開催したり、別のファイナリストのイベントを手伝ったり一緒にご飯に行ったりするなど、数々のアクションを起こしていた。

ブログやnoteには、職場や恋愛で女性が尊重されていない場面についての考察、フリーで被写体活動をしている女の子にデート目的としか思えないメッセージを送ってくる「撮らせてくださいおじさん」批判、香港・中国・日本における女性の社会進出事情などに加え、自身が精神科に通っていた時のことや家族(主にお父さん)との関係など、ジェンダー問題にとどまらない様々なテーマの文章がアップされた。あと謎のマンガの回もあった。

申し訳ないが、私はこれらの記事を全部読めていない(ブログ「おーえる放浪記」とnoteに分かれていることもあり…)。
しかし、これまで読んだ記事を振り返って感じたのは、彼女は社会問題を指摘しつつも自分の抱えている問題から逃げていなくて立派だな、ということだ。あと、女の子に良い未来を遺す活動をすることで「自分が救われたい」と素直に言ってしまうところも素晴らしいなと思った。

「女性のため」「社会のため」という大義名分を掲げて社会の変革を訴える人の中には、自分が抱えている問題を社会のせいにして逃げたいだけの人も、一定の数混じっているように思う(大学時代にそういう感じの子に会ったことがある)。社会的弱者やマイノリティを、自分と向き合うことから逃げる手段として利用しているように見えて、偽善だと感じた。
おーえるさんは、自分の問題は自分の問題として引き受けた上で、女性を尊重しない風潮を変えないと乗り越えられない問題については社会に変革を求めるという問題の切り分けができていて、理性が働いている印象を受けた。経済状態はともかく、人としてはやばくないと思う。

彼女の文章を読み、今の日本を生きる女性たちが直面する様々な問題について、沢山考えさせられた。
その中で印象に残っているテーマを2つ書きたいと思う。

印象的だったテーマ1 私の考えるギリギリエロ

ミスiDの選考では、個人の人気度を測るバロメーターとして、CHEERZというアイドル応援アプリが使われている。
CHEERZとは、アイドルやミスiDに出ている人が投稿した写真や文章に対し、ファンがボタンを連打して投票できる(ハート形の「チア」を送れる)スマホアプリ。獲得したチア数はセミファイナル選考とSNS選考が終わるタイミングで集計され、上位の人は選考上有利になる。

選考期間中、このCHEERZ上で、参加自由の小さなコンテストが何度か行われた。
参加者はミスiD選考委員が出すお題(「人生を変えた映画」「わたしの夏休み」など)に応じた写真や文章を投稿して、選考委員が1位~3位を選ぶ。選ばれると順位に応じて数万~数千チアがもらえるので、参加者にとってはチア数を稼ぐ貴重な機会となる。

このコンテストで、「私の考えるギリギリエロ」というテーマが出されたことがあった。
それに対し、おーえるさんが異議を唱える投稿をした(原文ママ)。

〜すごく自分の中で女性が肌を見せることについて否定も肯定もできない。答えが出せない。ということについてnoteに書いたらすごく自分にとってホットなCHEERZテーマを投稿しろだとよ。〜

というわけで以下はCHEERZで投稿した内容です。今回のCHEERZのテーマに関して批判的な立場です。↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

CHEERZでなにかまじめなこと書くつもりもなかったし、すごい悩む。私の中でも「エロ」及び「女性が積極的に肌を見せる」ことについてはほんとに答えが出せてない部分があるから正直、なんと言っていいかわからない。

とりあえず言えることはそれぞれの捉え方にもよるが、こういう形で肌を見せるのを促すのってどうかと思う。みんながみんなじゃないかもしれないけど、この焦燥感のある選考期間中に。18歳未満の子もいる中で。

もしこれがわざと物議を醸すための話題づくりなのだったらやってることは新潮となんら変わりもないし、女の子の新しい可能性を見たいのであれば何か年齢制限だの前置きをするべきではないかと思う。

とりあえず、みんなに言えることは本当に自分本位でない限り、肌を見せるべきではないと思う。

小林さん、何考えてるんですか。

最近、芸能事務所への勧誘を装ったAV出演強要がニュースで取り上げられたことがあった。元アイドルの女性が、グラビアの仕事をした際、事前の打ち合わせで聞いていたより露出度の高い水着を渡されたと語っているインタビュー記事を目にしたこともある。女性を追い込み、本人の望まない姿の写真や映像を流通させることは、決して許されないことだと感じる。

今回のCHEERZのコンテストは自由参加の企画で、しかも「私の考える」ギリギリエロ、がテーマである。
自分にとってはこれが限度ですよというものを各自が判断してアップすればいいし、嫌ならしなくてもいい。露出度が低くても、「こういう観点で見ればこれもエロだ」と理屈を付ければ、一応お題に答えたことにもなる。自分が写っていない写真をアップする、絵や文章だけにするという手もある。露出度の高い格好をした写真のアップを、強要しているとは言えない。
しかし、おーえるさんは「みんながみんなじゃないかもしれないけど、この焦燥感のある選考期間中に」このテーマで投稿を募ることで、参加者が本人の意に反した露出度の高い写真をアップする事態を招いてしまうと懸念した。

自由参加で、何がエロなのかの判断が本人に委ねられている。
しかし、勝てば数万チアがもらえて、選考上有利になる。
こういう状況の中で、焦りから自分の露出度の高い姿をアップしてしまい、後になって後悔する参加者が現れた場合、果たして責任は誰にあるのだろうか。
露出度の高い写真を出してチアをゲットするという戦略を立てた参加者本人? それともこういう環境を作った、小林司実行委員長?

私自身は、ミスiDは個性やセルフプロデュース力を問われるコンテストだと思っているので、むしろここで世間的なエロ定義を鵜呑みにするような態度を見せれば「自分で考えていない」とマイナスに評価されてしまいそうだと感じた。肌見せという分かりやすいエロの記号を単純になぞって即有利になるとは思えなかったため、おーえるさんの主張がいまいちぴんと来なかった。

(この時のCHEERZの投稿を見ると、トンボの交尾写真をアップする人、保健体育の教科書を持った他撮り写真をアップする人、架空の官能ケータイ小説をアップする人など、露出度の高さではなくひねりの利いたエロ解釈で勝負している人もおり、単に肌面積が広いだけではむしろ個性や面白みがなく見えてしまうような気もしたんですが…他の人はどう感じたんだろう。)

そして、勝ちたいという気持ちが暴走して肌面積の広い写真をアップしてしまう人が出た場合に、自由参加ですと断った上でこういう企画をやっている主催者のせいになってしまうのは気の毒なのではないか、とも思った。
これは当事者でないからそう感じるだけなのだろうか。評価にさらされるセミファイナリストの立場だったら、「肌を見せなければ!」という気持ちになるのは自然な流れなのだろうか。

(恐らくおーえるさんの中では、この状況が、OL時代に偉い人に下ネタを振られても笑顔で対応しなければならなかった場面などと重なったのではないかと思う。
私自身は、上層部が決めた目的達成への貢献が求められる企業でやらされることと、選考委員の期待を良い意味で裏切ることが求められるミスiDでやるべきことは根本的に違うと感じるのだが…社畜の身としては、私より圧倒的に自由な場所にいる子たちには伸び伸びやってほしい…!)

しかし、この一件があってから、カメラの前で肌を見せている女の子たちの中で、本当に好きでやっている人はどのくらいなんだろうと考えるようになった。例えば、女優やタレントになる夢へのステップとしてグラビアやAV女優(セクシーアイドル?)をやっているような女性は、露出度の高い格好を「させられている」ことになるのだろうか。

そういう仕事を選んだ女の子たちは「夢のために納得してやっている」と言うだろう。実際に、安田美沙子やみひろなど、グラビアやAVから出発してタレント業・女優業にシフトした女性もいる。しかし、望ましい形でのテレビや舞台出演のチャンスが全員に巡ってくる保証はなく、チャンスを掴んだとしてもその世界で求められる資質がない可能性もある。

恐らく、夢が叶った場合と叶わなかった場合で、肌を見せることの意味は変わってくる。
夢が叶ってグラビアを卒業した人なら、チャンスを掴めたのだから肌を見せたことは正しい選択だったと思えるだろう。でも望んだ場所に辿り着けなかった人にしてみれば、露出度の高い格好をした過去の自分の写真や映像は「若さを消費された」「搾取された」黒歴史として認識されるのかもしれない。

本来なら、水沢柚乃さんや紗倉まなさんのような、肌を見せる仕事にやりがいを感じられる人だけがグラドルなりAV女優なりをやるのが、本人・ファン・関係者にとって一番望ましいだろう。
でもグラドルやAVの世界からタレントや女優にステップアップするというルートが存在する以上、「人より脱げるならチャンスをあげよう。どうする?」という提案を受け入れて結果的に肌を見せることになる女性も生まれる。本人は自分で選んだと思っても、選ばされている部分もあるような。

今までちゃんと考えたことはなかったが、この芸能界における「夢への通過儀礼としての肌見せ」というシステムって何なんだろう…という疑問が湧いてきた。
芸能界の上層部に女性が増えたら、グラビア・AV界で人気な子を起用するという方針は見直されそうだし、結果的に不本意な肌見せをする女性も減る気がするのだが…でもそうなるまでには何年もかかりそうだ。

<テーマ2は後半で>

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