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京都で一人飲みデビューした私は大人になれたのだろうか

大人の条件、そして一人飲みへの憧れ

大人の条件とは何か。エッセイや雑誌の特集などでよく見るテーマだ。挙げられる条件は著者や雑誌によってばらつきがあるものの、その中にかなりの確率で入っているのが「一人の時間を楽しめる」ではないかと思う。もしそうであれば、私は10代の頃から「大人っぽかった」ことになる。

中学生の頃、美術館や映画館に一人で行く楽しみに目覚めた。大学に入ってからは一人旅もするようになり、今でも年1回は2~3泊の旅行に一人で出かける(ほぼ国内ですが)。一緒に行く人がいなくても、映画やアート作品や旅先の景色に触れて感動したり考えたりする時間は刺激に満ちていて、そんなに淋しいと思ったことはない。
人と出かけるのが嫌いなわけでは決してないのだが、自分にとって思い入れの強いものを一緒に行く人が楽しんでくれない可能性を考えて「もう一人でいいや」となってしまうことがよくある。
日常的に一人で外食もするし、ライブにも行く。実家を出て一人暮らしを始める時にも抵抗はなかった。

そんな私だが、一人飲みだけは、ずっと挑戦できなかった。
憧れはありつつも、お酒に弱いため、バーや居酒屋で過ごす時間を楽しめる自信がなかった。マスターや店の人とお酒の話をしようにも、ワインや日本酒や焼酎の銘柄を知らない。利き酒をしたくても、沢山飲んで酔ってしまった場合、付き添いがいないとお店の人や周囲のお客さんに迷惑をかけることになってしまう。目の前でカクテルを作ってもらったりするのは絶対に楽しいはずだが、結局「飲める体質ならもっと楽しめたのに」という気持ちになったら嫌だ。もしかして、飲めないのに一人で飲むという状況、傍から見たら「話しかけられるのを待ってる淋しい女」か……? あれこれ考えているうちに、20代が終わってしまった。

しかし、思ってもみなかった形で、私は一人飲みデビューを果たすことになった。

京都の和風居酒屋の思い出

その日、私は単身で京都にいた。恒例の一人旅。3月の、小雨がぱらつく肌寒い日だった。
立ち寄ると決めていたスポットを一通り回って、夕飯の時間になった。せっかくなので京都らしいものが食べたいと思い、私は三条大橋のたもとから、先斗町へと続く細い道に入った。


先斗町は、食べ物屋と飲み屋がひしめく細長い通りで、鴨川の西を三条から四条にかけて縦に走っている。森見登美彦の小説「夜は短し歩けよ乙女」にも登場する、味わいのあるエリアだ。良い雰囲気でお財布に優しめな店を求めて、周囲の看板やメニューボードに目をやりながら進んだ。さらに、前からやってくる様々な国籍の観光客たちとすれ違う時、ぶつからないようにビニール傘をよけるという動きも加わった。

しかし、私が扉を開けた店は、ことごとく満席だった。京風白味噌おでん、おばんざい、素朴な定食、どれにもありつけない。ついに座席に腰を下ろすことなく、先斗町の果てまで来てしまった。道の混雑ぶりを肌で感じた後では、引き返してもう一度店を探す気にはなれなかった。
私は宿泊先のホテルの方向に歩き出した。帰り道の途中で、見つけたところに入ればいいか。

ホテルが近付くにつれて、帰り道で店を探すのは誤算だった、と思った。歩道の左右にはシャッターの下りた服屋や雑貨屋が並んでいるばかりで、食べ物屋が見つからない。あったと思うと、あまりにも高級な店構え。想定外の出費への不安に加え、旅行者のラフな格好で入るのも気が引けて、結局素通りした。
コンビニご飯を覚悟しながら脇道をのぞいた時、庶民的だけど小綺麗な和風居酒屋がぽつんと光を放っているのが見えた。
一人で居酒屋……飲めないのに。しかし、この先に店が見つかる保証はない。寒さと空腹で、もう限界だった。
私はビニール傘を畳み、ドアの取っ手を引いた。

「いらっしゃいませー!」

入るなり、威勢のいい声に出迎えられた。正面に現れた長い木のカウンターの向こうでは、若いお兄ちゃん数人が、黒いTシャツ姿できびきびと働いていた。
あまり広くない店内のテーブル席はほぼ埋まっていて、私は案内されたカウンターのスツールによじ登った。目の前の棚には国内外の酒瓶がずらりと並び、無言の圧を浴びせてくるようだ。

メニューを開くと梅酒の種類が多いことが分かり、少し救われた。食事をしながら梅酒のお湯割りと烏龍茶を交互に飲めば、帰れなくなることはない。はず。店員さんを呼び、ゆず梅酒お湯割りと、看板メニューの焼き鳥と串焼きを何種類か頼んだ。

カウンターの奥にはひっきりなしに店員さんが出入りし、空のジョッキやグラスや皿を流しに置いては、料理や飲み物入りのグラスを満載した丸いトレーを持って店内へと出発してゆく。
少し離れたところには階段があり、2階席の声が下まで流れてくる。かなり大人数の宴会が行われているようで、ざわめきは途切れず、時折どっと笑いが起こる。若い男の子が、声を張り上げてオーダーを確認しているのも聞こえる。

「お待たせしましたー」

運ばれてきたゆず梅酒を口に含むと、柑橘の香りと甘みと温かさが口と鼻全域にじわっと広がった。
早くも回ってきたアルコールを感じながら、串焼きに手を伸ばす。優しい甘さの葱、ジューシーな鶏肉、ぷよぷよした生麩……全部美味しい。そういえば、この界隈には錦市場があった。そこで仕入れた食材を使っているのかもしれない。
あれこれ考えていたら、追加で頼んだぶり大根も来た。ぶりのギトッとした脂っこさを噛みしめる。甘辛い汁を吸った大根が、口の中でほろほろ崩れる。

先斗町で3度目に満席を告げられた後の落胆や、食べ物屋のない道を歩いていた時の心細さが嘘のように、私は多幸感に包まれていた。こんな最高の店に辿り着けるなんて、何てラッキーなんだろう。
この日食べた中で最も心を掴まれたのは、白味噌をかけた山芋串。焼いた山芋の絶妙なとろみは忘れられない。いつかまた食べに行きたいと今でも思う。

空いたグラスが5~6個載ったトレーを手に、店員さんが階段を降りてきた。カウンターの奥に蠢く黒Tシャツたちの間を縫うように進んで流しに辿り着き、グラスを置く。後ろの棚に向き直って、大きなプラスチックの日本酒ボトルを掴み、新しいグラスに中身を注ぎ込む。グラスの四分の一ぐらいのところで、酒が尽きた。

「あの、これ、補充あります?」
「え、もうない? 買ってこなきゃ駄目かなー」
「水多めに入れちゃっていいんじゃない? もう分かんないと思うよ?」

確かに2階席の盛り上がりっぷりを考えると、酒の濃さを冷静にジャッジする力が残っている人はほぼいない感じがした。ていうか、酒の濃さって一定じゃないんだ……笑いがこみ上げてくる。

〆の梅茶漬けを頼んで、手元の烏龍茶を飲んでいると、パーティー帰りのような格好の男女が階段を降りてきて、店員さんを呼んだ。なぜか2人ともスーツケースを持っている。
「すいません、先にお会計お願いします。僕らもう行くんで」
2人が支払いを済ませているうちに、2階席から仲間たちがどやどやと降りてきた。みんな顔がかなり赤い。


「これから出発?」
「うん。今日ほんまありがとな」
「新婚旅行、楽しんでな」
「じゃあ気を付けて。またね!」


2階席の飲み会は、結婚式の二次会だったのか。ドアを開け、傘を片手にスーツケースを転がして出ていく2人を、ゲストたちが言葉をかけたり手を振ったりしながら見送る。自分にとっては何てことない日も、誰かの記念日なんだと気付く。おめでとう、京都の新婚さん。もう会うことはないだろうけど。

梅茶漬けの最後の一口をすすり、お会計をして店を出た。
雨は来た時より小降りだった。店内との温度差に震えながらも、爽快な気分だった。

黒Tシャツ集団の無駄のない動きと、笑えるやりとり。2階から降ってくるざわめきと爆笑。グラスに注がれる様々な酒、手から手へリレーされる串焼きや煮物やお造り。食べながら即興の演劇を見ているような、贅沢な時間だった。一秒も退屈しなかった。
一人飲みが好きな人の気持ちが、少し分かった気がした。美味しいお酒と食べ物と店の空気を余さず感じたいと思ったら、一人で行くのがベストという考え方もあるのだろう。良い雰囲気のお店に辿り着けたなら、一人で飲むことはエンターテインメントだ。沢山飲めなくても、お酒の知識がなくても、目の前の一杯一杯、一皿一皿を、丁寧に味わえば良いだけなのだ。

人任せにせず、リスクを負う

不思議な巡り合わせによって一人飲みを経験した結果、私の生きる楽しみのストックは一つ増えた。
でも、これをもって「私は大人になりました」と言っていいのだろうか。さすがにそれは大袈裟な気がする。

ただ、この夜を振り返ってみて、一人で行動できる人が大人と見做される理由の一端を掴んだように思う。
大人とは、「人生の充実を人任せにしない」「失敗するリスクを負える」人のことを言うのではないか。

自由に使える時間やお金をどう使うのか。学生時代なら、友達同士のコミュニティから弾かれないように、休みの日の過ごし方・観る映画・行く店を、みんなに合わせて選ぶことが多かった(理解されなそうな映画は一人で観ましたが)。親睦が深まったことでとりあえず安心感を味わえたし、いまいちだなーと思っても人のせいにできた。○○ちゃんはセンスが悪いとか、感覚が合わないとか。

しかし仕事に就いて、学生時代の様々な制約やしがらみがなくなれば、人生の自由度が上がる。どう働き、限られたプライベートをどう過ごすか、基本的に自分で決めることになる。そのためには、自分は何が好きで、何をしている時に充実感を得られるのか、どんな環境を心地よく感じるのか、模索しなければならないだろう。判断を誤り、失敗するリスクを負いながら。

人生を豊かにしてくれそうなものや人を探し、試し、足を運ぶ。時にはハズレを引き、財布の中身が予想以上に減り、裏切られ、「こんなはずじゃなかった」と絶望する……。常識に捉われず、人生を良くする術を地道に模索した経験の蓄積が、人を大人にするのではないだろうか。その蓄積を誰かのために使えた時、周囲は「なんて大人なんだ」と感じるのではないか。
逆に、自分で選べなかった頃と同じ感覚で見るものや行く場所を誰かに決めてもらい、気に入らないと相手のせいにするような人は、たとえ20歳を過ぎていても、恐らく大人な人とは言えない。

……考えているうちに、単独行動が多いだけでは駄目な気がしてきた。自分の内面を深く見つめる時間を作ってきたことに関しては、ある程度自信があるけれど。


一応、私が「一人○○」で得たものの一部は、会話のネタやブログ・noteの記事という形で、身近な人に手渡してきたつもりではある。あれらは果たして誰かの役に立っているのだろうか。なっていますように。

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