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漂流物/堆積物 -自覚なくカフェに残した痕跡-

一人暮らしをしていると、会社が休みで人と会う予定のない日は、ほとんど誰とも喋らずに終わる。レストランやカフェで「一名様ですか?」「はい」などの事務的な会話をしたり、スーパーやコンビニのレジの人と買い物に必要なやり取りをする以外、言葉を発する機会がない。夜になって一日を振り返り、人との関わりの少なさにはっとすることがあった。

仕事をしていなくて、誰かと会っていない時の私は、この世に存在していると言えるのか。店の人と会話は成立しているので、一応、物理的には存在している。しかし私が沢山の客の一人として処理されているだけなら、店で働く人にとって、私は代替可能な存在でしかない。「チーズケーキとホットティーお願いします」「ホットティーは、レモン、ミルク、ストレートがございますが……」「えーと、レモンティーで」みたいなやり取りがあっても、その会話の内容やシーンは店員さんの心にほんの一瞬残るだけで、給仕や会計が済んで別の仕事に移った瞬間に意識の外へと流れ去ってゆくのだろう。(私の見た目や態度がよっぽど個性的であれば話は別だが、自分にそんな特徴があるとも思えない。)親しい人や仲良くなれそうな人と会って喋る時のように、発した言葉や声や表情、服装や雰囲気などの断片が、相手の記憶の中に堆積するようなことは起こらない。
一人で買い物や外食をする私は、言ってみれば、商品やサービスへの対価として金銭という無個性なものを置いてゆくだけの漂流物だ。私が店に姿を現さなくなっても、別の客が一人増えれば営業的には何ら問題ない。そんなことを考えていると、自分の輪郭がぼやけてくるような心地がした。

しかし、新型コロナウイルスによって生じた沢山の変化の中で、案外そうでもないらしいと思うようになった。

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緊急事態宣言を受け、私が休日に度々行っていたカフェも休業することになった。4月に店主に手紙を書いたところ、返事が来た。

詳しい経緯はこちら:

5月下旬、カフェは営業時間を短縮して再開されることになった。
しばらく様子を見ていたが、6月上旬の週末に行ってみることにした。

再オープンのお祝いに、相手に気を遣わせることのない値段のものを持っていこうと思い、その頃ちょうど花屋に並び始めた小さめの向日葵を一輪買った。リボンの色は赤にしてもらった。気を強く持ってほしかったので。

道に出ているカフェの看板と、古い日本家屋を改装した建物を久しぶりに眺め、引き戸をガラガラと開けた。新たに設置された霧吹きを見つけ、両手をアルコール消毒した。
「いらっしゃいませー」と店主の声が聞こえてくる。カウンターの向こうの店主は、ポップな色遣いの布マスクを着けていた。
一階のテーブル席には三人ぐらい先客がいて、カフェはコロナ前の状態を取り戻しつつあるように見えた。

「再オープンおめでとうございます。お手紙ありがとうございました、小林です」
店に来たらお声がけくださいと手紙に書かれていたので、店主に向日葵を渡しながら言った。
「あぁ!」
店主の顔に、納得したような表情が浮かんだ。「顔と名前が結びついた」という感じの反応だった。「誰だっけ」という戸惑いはどこにもなかった。
彼女は私の顔を覚えていたらしかった。マスク越しでも分かるほど正確に。決して、常連と言えるような頻度で通っていたわけではなかったのに。

二階の席でキーマカレーを食べ、アイスミントティーを飲んだ。店内の本をぱらぱらめくったりしてゆっくり過ごした後、荷物を持って下に降りると、カウンターの上に置かれた金属の花瓶に、向日葵が早速飾られていた。

何度もお礼を言われながら、引き戸を開けて店を出た。駅までの道で、嬉しさと、狐につままれたような気分が混ざった、何とも言えない感情に襲われた。

これまで店主とは、基本的に注文やお会計のやり取りしかしてこなかった。サンドイッチに刺してある楊枝の旗の絵が気になって「これは夏用の絵柄なんですか?」「そうなんですー」みたいな会話が生まれたこともあるにはあったが、それも三年に一度ぐらいのものだった。お互いに名前も知らない間柄なので、店主を知り合いにカウントするような意識はなかった。
それでも店主の頭の中には、カフェでくつろぐ私の断片が、少し堆積している。

休みの日にこのカフェに向かうのは大抵、家事や公募に向けた文章の執筆などに飽き、気分を変えたくなった時だった。店内で食事をして、帰宅して、また洗濯や夕飯作りや書く作業に戻り、風呂に入り、電気を消してベッドに横たわり、「あー、今日誰とも喋ってないなー」と思う。誰にも邪魔されなかった安堵と孤独が交錯する、穏やかでどんよりした感覚。
でも、カフェの店主とのささやかなやり取りや、その時の私の表情や雰囲気などの断片は、流れ去らずに店主の中に留まっていたらしかった。知らないうちに、見守られていたのだなぁと気付く。あのカフェの引き戸をくぐった瞬間から、思った以上に濃いコミュニケーションが始まっていたようだ。

私が本当に孤独に過ごした休日は、案外少ないのかもしれない。会社の人や親しい人が側にいなくても、私はちゃんとこの世に存在し、色々な場所や人の中に無意識のうちに痕跡を残していたらしい。
もし私が不意に孤独死した場合、この店主や、度々行く店で働く誰かは「あれ、あの人最近来ないな……」と思うのだろう。想像すると少しほっとする。そして若干恥ずかしくもある。自分が残してきた痕跡がどんなものか、きちんと把握しきれていないので。

🌻

そんなことを考えていた折、デザイン活動家・ナガオカケンメイさんの、この文章に行き当たった。

店ってやっぱりひとりひとりなんだと改めて思います。僕は一斉メールが好きではありませんが、もしやるとしても、その基本は意識しないといけないと思います。店をしたいと思った店主、創業者がひとりいる。そこにお客さんとしてのひとりが初めてやってくる。そこで対話して、ひとりの店主が選んだものがひとりの人に売れる。この最初の感動、「お客さんがきた!!」「選んだものが初めて売れた!!」という初心と原点と、そして「基本」。

店という空間は、定義の上では、商品・サービスと金銭を交換する場だ。しかしそこには、それに付随する静かな感情のやり取りがある。
人が店を構え、自分の理念にのっとって商品を並べたり、サービスを提供したり、人を迎え入れる空間を作ったりする行為は、それ自体が「世の中にはこういうものが/こういう体験が/こんな空間があるべきだ」という一つの主張だ。そして、そこに定期的に顔を出すことは、実質的に「その主張に賛同します」という合図となる。単なる交換を超えた、双方向的な関係が立ち現れる。
客であるこちらは大して主張していないつもりでも、店側は「主張を受け止めてくれたひとり」として、思った以上に私たちに興味を持っているのかもしれない。

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今年の初めに新型コロナウイルスが日本に上陸し、国や自治体による感染防止策が展開される中で、私たちの生活は一変した。今日までの約半年間、このテーマに関する沢山のニュースに一喜一憂する中で、自分の暮らしやこの社会がどのような理屈で回っているのか、誰のどんな労働によって支えられているのかを未だかつてないほど意識し、また思い知らされた。
それはまるで、人生という舞台の背景が突然崩れ、舞台装置の構造部分や、通常なら表に出てこない裏方たちの姿が露わになってしまったような、衝撃的な体験だった。
今まで見ないで済んできた装置の歪み、裏方たちの窮状などが暴かれてしまった以上、この社会は本当にこれでいいのかという問いに向き合い、適切な行動に繋げていかなければならないと強く感じる。

しかし、非常事態になって初めて、日々の暮らしの中で静かに育っていた豊かな繋がりに気付かされたのも事実だ。自分は案外孤独ではないらしいという嬉しい発見が記憶から流れ去る前に、ここに小さく書き留めておく。

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