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奇書『ピカピカのぎろちょん』読解:異質階級としての子ども

Ⓒ1968 あかね書房

① 序論

佐野美津男『ピカピカのぎろちょん』は日本のみならず世界の児童文学を見渡しても(私の知る限り)類似する作品が見当たらない奇書と呼ぶに相応しい作品である。最後まで得体の知れない(が、おとなはその正体を多かれ少なかれ知っているらしい)「ピロピロ」により日常生活が確実に破壊されていく過程とその恐怖を子ども目線で無機質に綴った本作は、「トラウマ児童文学」と評すブログ⁽¹⁾も存在するほど読者に大きなインパクトを残している。
 1968年に書かれたことを考慮すれば、ピロピロがクーデターないし学生運動に近いものを表象していることは読み解けるが、以下の二点がピロピロの実態を隠し、得体の知れない恐怖を演出することに成功している:①「銃」「ヘルメット」「警官隊」といった革命を直接暗示する装置が登場しない、②「黒いへい」「バリケード」「ギロチン」といった作中に散りばめられた不穏な記号が使われることなくただ放置されている。
 「被害者なき暴力装置」は作中の子どもたちのみならず読者の想像力も大いに刺激する。直接的な暴力や闘争が描写されず静寂を保ったまま淡々と進行する物語は、かえって背後に迫った巨大な恐怖を浮き彫りにしている。

 ピロピロというあまりにも強烈な象徴に隠れがちであるが、本作のもう一つ特徴的な点は物語の担い手である子どもたちの描き方であろう。主人公のアタイは小学生ながら友人たちを先導し、ピロピロが原因で発生した不条理に自分なりに打撃を加えようとするリーダーシップと強かさを発揮する。「いつかおまえを、たおしてやる」と宣言するアタイはピロピロにより変化した日常をただ受け入れるおとなたちとは正反対の「主体的に敵対する子ども像」を確立している。
 本論は『ピカピカのぎろちょん』における子ども像を、作者・佐野美津男による子ども学に照らし合わせながら整理することを目的とする。

② 児童文学論と子ども学

佐野美津男は「子ども学」という研究分野を世に提唱した人物としても知られている。戦災孤児であった佐野の体験が子ども学の礎となり、さらに「子どもの力を恐れる」独特な作品を作りあげていった可能性は十分に考えられる。
 しかし、子ども学以前の児童文学論では、子どもはあくまでも一元的に解釈できる未成熟な存在とされていた。代表的な例として、リリアン・H・スミス『児童文学論』があるだろう。1953年にアメリカで出版された本著は児童文学の系譜を神話や伝承をルーツにまとめあげ、「子ども向けの作品こそクオリティが問われる」という考えを定着された功績はあるが、肝心の子どもを深く考察しているとは言い難い。子どもはみな「冒険好き」「空想好き」だが「難解な狙いは退屈と感じる」いわばボーイスカウト的な存在として一括りにされている。想定された子ども像がボーイスカウトタイプの一つしかないため、当然「良き」児童文学も『トム・ソーヤーの冒険』や『不思議の国のアリス』などのキャノンを頂点としたランク付けの中で語られてしまっている。児童文学の意義を論じる際はおとな目線の押しつけを的確に批判するスミスであるが、子どもの性質傾向を論じる際はおとな目線での規定を前提としている点からは、西洋的な啓蒙思想の病理を感じざるを得ない。

 一方、佐野の「子ども学」はこのようなおとな目線の安易な特徴付けを徹底して排除している。佐野は「子ども文化」と大人により恣意的に生み出された「子どもチック文化」を別物と捉え、「児童文学をはじめとする子ども文化は、健全の名のもとに画一化されるのではなくて、子どもの個体的特性を意識しながら、きめこまやかに多様化されていったほうが、ほんとうの意味で子どものためになる」と主張する。彼は心理学や文学の付属品としてではなく女性学と同様学問としての子ども学の必要性を強く訴えているが、その根底には「子どもは差別されている」「子どもへの要求は誕生の時点ですでに始まる」という、おとな都合な子ども論への強い反発がある。
 ちなみに、佐野は子どもチック文化の例として「アニミズム」「人工論」「擬人化」を挙げているが、前述のスミスが児童文学のキャノンに疑うことなく位置付けた『たのしい川べ』や『不思議の国のアリス』はアニミズムや擬人化を多用している。

 『ピカピカのぎろちょん』における子ども描写には、子ども学を強く反映していると思われる要素が散見される。次章にて整理したい。

③ 異質階級の芽生え

佐野は著書『子ども学』の中で子どもへの同化を批判し、子どもとおとなを区別することの必要性を説いている。そして、子どもがおとなの規範と馴染まないからこその可能性を「既存のいかなる階級とも異質の階級を形成することが可能」と高く評価している。あくまでも子どもの好みを画一的に論じるに留まっていたスミスとは異なり、佐野は「多様性」と「異質階級(子どもだけの独自世界)」を重視しており、より発展的な子ども論が展開されていると言えるだろう。
 事実、『ピカピカのぎろちょん』における子どもたちはピロピロによる理不尽に晒されることで急速に異質階級を発展させている。『ピカピカのぎろちょん』における理不尽は情報不伝達の理不尽である。学校、公園、商店街といった生活の拠点が機能不全に陥っているにもかかわらず、その混乱の源であるピロピロについての情報は子どもたちに隠されるか、断片的にしか伝達されない。

 子どもが自らの生活や人生を左右する情報から恣意的に遠ざけられるシチュエーションは児童文学や童話の中でしばしば見られる。一例として「いばら姫」を挙げることができるだろう。いばら姫は出生と同時に悪い女に「糸車に刺され15歳で絶命する」呪いをかけられる(別の女より呪いは「100年の眠りにつく」という形に緩和される)。いばら姫の父である王様は国中の糸車を処分することで呪いを避けようと試みるが、そのような事情を何も知らされていなかったいばら姫はたった一つ残っていた糸車に不用意に触れることにより、呪いが達成されてしまう。
 このいばら姫のエピソードが描き出すのは「情報なき子どもの無力性」である。もし王様がいばら姫に呪いの情報を事前に共有していたら結果は違っていたかもしれないが、情報のないいばら姫に自らを守る力はなく、定められた運命になすすべなく屈伏することしかできない。

 しかし、『ピカピカのぎろちょん』の子どもたちは情報が遮断されているからこそ主体性を爆発的に発揮する。特にアタイの行動力は凄まじく、ピロピロの情報を得るためにバリケードを乗り越える方法を模索し、商店街の屋根上を渡り、ついには友人たちと協力しギロチンの模倣品を作成させるに至る。肝心な点は、これら一切の行動がおとなのコントロールから離れて行われていることであり、アタイは情報統制を起爆剤として異質階級を作り出すキャラクターとして設定されていると言える。情報が遮断された結果無力化したいばら姫とは対照的な子ども像であり、おとなの知らない間におとなの手に負えない世界を創造したアタイは佐野の子ども学を見事に体現している。
 ギロチンのおもちゃ「ぎろちょん」を作り出すアタイたちの遊びはあくまでおとなの行動様式を模倣しているだけではないか、という指摘もできるだろう。しかし、前述の通りアタイたちは作中で実際にギロチンが使われる場面を目撃していない。それでもアタイたちはギロチンの用途を調べあげ、にくらしい人を投影しながら野菜の「首を切る」遊びを創造する。ここまで来ると彼女らの遊びはおとなたちの手に余る残酷性を帯びてくるが、しかし子ども自身が主体的に生み出した一つの文化であることは間違いない。

 佐野は子ども文化を三種類に分類して考える:①子どものためにおとながつくり与える文化、②かつては子どものためのものではなかったが時代の流れによって子どものためのものに変化した文化、③子ども自体が生みだす文化。児童文学は作者がおとなである以上必然的に①の性質を帯びるが、その中で描かれるぎろちょん遊びは紛れもなく③である。そして、佐野にとって③こそがもっとも重要な異質階級の芽生えなのである。

 また、佐野は創造的な子どもの遊びには時間の確保が必要であると論じている。『ピカピカのぎろちょん』では、時間の確保はピロピロによる学校閉鎖によってもたらされている。学校閉鎖をきっかけに、ただ公園に集まってくるハトを数えるという受動的かつ定量的な遊びに甘んじていたアタイたちは急速に独自の遊びを発展させたのである。

④ 分断と共存

前章で述べた通り、『ピカピカのぎろちょん』は子どもたちがおとなの世界から切り離された独自の異質階級を創造している点が特徴であった。では、本作は子どもの世界とおとなの世界の決定的な分断を描いているのであろうか。本章では以上の問いへの回答として、本作における分断と共存の表現を整理する。

 子どもとおとなの分断は主に二つの要素で表現されている。一つは子どもの行動を制限する様々な道具や記号(=歩道橋の穴、バリケード、黒いへい、有刺鉄線)、もう一つは子どもたちがその制限を乗り越える動作である。前者はおとなから子どもへの影響行使=宣戦布告を意味し、後者はそれを受けた子どもの反応を示している。子どもたちはおとなへの抵抗手段として「乗り越える=上に登る」動作を採用している。アタイたちは商店街のアーケードを登ることでおとなからの制限を突破し、ピロピロの秘密へと迫るのである。しかし、彼女たちも頭上を飛ぶヘリコプターにとっては上から見下ろされる存在にすぎず、黒いへいや有刺鉄線は最後まで突破できない。分断した異質階級はおとなの世界を塗り替えるまでには至らず、あくまでも友人間の約束事として共有されるに留まる。
 分断の結果、公園からハトがいなくなり、黒いへいが残ることとなる。この白 ▶︎ 黒への転換は平和の象徴が分断の象徴へと置き換わった事実を視覚的に強調する。

 しかし、子どもの世界はあくまでピロピロの模倣行為から派生する形で誕生している。つまり、異質階級の独自性はおとなの世界からの多大な影響が前提にある。
 佐野は子どもとおとなの安易な同化を批判している。佐野が重視するのは子どもとの同化ではなく「異化」であり、異質だが確実に相互に影響を与える存在として子どもとおとなの関係を捉え直すことにより、新たな共存の形を見出したのではないだろうか。
 そのように考えると、『ピカピカのぎろちょん』における子どもとおとなの分断すらも共存の一側面と見なすことができる。本作は佐野美津男の子ども学の真髄を大いに感じさせてくれる作品と言えるだろう。


【参考】
(1) yamada5「祝復刊「ピカピカのぎろちょん」(佐野美津男)」『児童書読書日記(仮)』2005.11.1 (2024.1.30 最終アクセス). https://yamada5.hatenablog.com/entry/20051101/p1

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