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なにもかも、杞憂で終わってしまえばいい


ドーナツをフォークで食べるような女性にはなりたくないと、思っていた時期があったはずだった。

最近は、「君たちはどう生きるか」や「なぞの転校生」、「それは誠」など秋並みに映像鑑賞と読書が捗っている。(正確に記録するとなると、もう一つ、心を揺さぶられまくった本があるのだけど、それは私の中にだけとどめておきたいので割愛する。)
家族が3人そろって映画館で映画を見るというのは、きっと4年か5年ぶりくらいで、楽しかったような、一人で観たかったような、不思議な気持ちだった。どっちみち、7月16日は忘れないだろう。

2023年になってから、私の心配性が恐ろしいスピードで加速していった。新型コロナウィルスの感染スピード顔負けのスピードだった。私はもうすっかり、「明日、大切な誰かが車に轢かれて死ぬかもしれない」という現実が恐ろしくて仕方がなくなっていた。(別に、これというきっかけがあってこうなったというわけではなく、今までの楽観主義が一転、心配性に様変わりしてしまったという感じ。)
もうなにもかもが心配で仕方がない……。
たとえば今年の9月の終わりは人生の聖地・カマクラで生活したいと考えているのだけど、そのピンポイントで地震が怒ったらどうしようとか、駅前で通り魔に刺されたらどうしようとか……つまり、どうにもならないことしか考えられないというわけだ。まだ死にたくないよ!という気持ちがないわけではないけれど、それよりも痛くて苦しい思いをするのが嫌で、それよりもさらに残される家族なんかのことがかわいそうだと思ってしまう。やっぱり、誰かが死んだときに一番かわいそうなのは、残される人で、だからこそ、私は誰も彼も見送ってから死にたいな、とはたまに思うわけである。(とはいえそうなると、私はあんまり長生きをしたくないから、みんな早く死んでくれといっているようなものとなる。)

しかし私の心配事は、たいていが杞憂に終わる。
心配事の9割は起こらない――という言葉を、当時まだ毎日電車に乗って働きに出ていた私は帰りに寄った駅構内の本屋で見かけたのだけど、もう悲しいことにほんとその通りで……いつも余計な心配ばかりしている私は、人生を損しているのである。自分でもそう思う。こんなグダグダうじうじ最悪の想定ばかりするくらいなら、もっとハッピーで埋め尽くしてやりたいぜ!と。ハッピーで埋め尽くしたい!いい響きの言葉だった。また米津玄師に感謝。

そういうわけで、杞憂で終わりまくる人生を損だと感じている私からすれば、「なにもかも杞憂で終わればいい」とは気軽には思えない。だって損をしているからだ。杞憂で終わらなければ、私の超絶無駄なシミュレーションやイメージトレーニングが、少しは無駄にならないかもしれない。杞憂で終わってしまえば無駄なのだ。無駄、無駄、無駄。私の9割無駄。残念な人生である。

それでも、杞憂で終わってしまえばいい。なにもかも。
私の人生の全てがちょっと無駄になるくらいで済むのなら、悲しいことなんて起こらなければいい。私はもう、誰かがいなくなったときにかわいそうなのは置いて行かれた方、ということを知って、わかってしまっているので、もう二度と置いて行かれたくない。(というと、「おまえはいつも置いて行ってる側ではないのか?」と彼や彼女らに言われそうなのだけど、そんなことは私からしてみると決してない。)

タイムリミットさえなければ、毎日ばかな顔をして笑っていられるのになあ。ベランダでひっくり返っている蝉に怯え続けられるのになあ。そしたらケンカをしても仲直りなんてしないかもしれない。ドーナツだってきっと好きなだけ食べられるし、これ以上アイスを我慢する必要なんてない。

たとえば、あなたの大切な誰かが、あるいはそれほど大切ではない誰かが、だけど時間をともにしていた誰かが、いなくなってしまったとする。いなくなってしまった誰かは、いなくなるその瞬間に何を思うのだろう。いなくなるその瞬間まで、何を考えて生活を送るのだろう。それは、絶対にわからなくて、今後わかることもなくて、だとするなら今までわかり合えたこともきっとなくて。だけど、だからこそ、人は誰かと一緒にいるはずで。分かり合えたらすごく嬉しいけど、だけど、分かり合えないからといって、悲しむ必要はないはずだった。

毎日、愛や死や過去や未来や記憶や夢について考えながら生きていると、頭が痛くてたまらない。昨日から頭痛がひどいのだ。眠っても治らないし、首や背中を伸ばしてみても治らない。私の肩甲骨は羽のできそこないだというのなら、ちょっと頑張って育ててみようかしらなんて思う日もあるけれど、今日も私の体はドーナツとキャラメルラテで出来たゆるふわ愛されボディだった。

2023年7月24日

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