結局自分を知ることで相手を知るというだけのことだった。ASDのラベリングに失敗した日々

ASDがやっぱりよくわからない。
ASD傾向の強い父を持った私の率直な感想だ。

数年前はHSPも知られていなかったし、ASD系の人は悪化すれば、精神病として隔離されていた時代な訳で私たちはこの話題に対して「デリケート」な話題であると前提条件を持っているという意識は本当に必要だ。

そんなことも知らずに病気ではないというHSPということが広く知られているのは、多様性理解としては成功していると私は思っている。

とは、逆にASDがますますわからなくなった。

発達障害と括ることで理解しやすいかと思い「発達障害」「定型発達」と言葉を使ってみたが、うまくいかなかった。

実際、発達障害で援助が明確に必要な人はその支援は積極的にした方がいいと思う一方、日常生活の支援が必要ないけど傾向の強い人(実際ASDと認定を受けた人も含み)共同生活の上ではグレーゾーンと言われる人の「コミュニケーション、社会性人間関係」のアンバランスにおいて、他者にまで影響を与える、いや、多少でも影響を与え合うのが人間関係なのだが。。。

「度を超えている」その一言に尽きるのだが、それが発達障害ではなく、ASDとしたときに説明が非常に難しくなった。

1)ケース(こだわり箇所)がみな違うので、個人の感度に依存しすぎる
2)他者を巻き込むもの、ではないものがジャッジ基準
3)犯罪を犯している訳ではないので、これも個人の感度に依存しすぎる
4)掛け違えたボタンのように、小さく連続的に影響をしている
5)相手が理解しようと努めたときに、なお、パートナーが苦しむ仕組み

ここら辺をASD関連ででこない。
明確な説明文がない。
対処法がない。

次にHSPの良心がこのASDの欠点を助長させる性質があると最近は思っている。というか十分HSPも厄介で、心優しいだけのHSPは特に厄介だ。
気持ちでなんとかなる、悪気がなければ責めなくていい。が結局そんなもの解決策にならないから、悲しみの哀愁ポエミーを聞かされる時、感動ポルノみたいにイラっとするのが、HSS型HSPの私の最近だ。

HSS型でよかったというか、HSPと差別化に繋がったのは、圧倒的な体験値の違いだ。机上の空論性善説が大好きHSPは、それだけではまだいいが、感覚だけで生きてしまった人は、「+正しい」が追加され、正しいのに世に受け入れられないを発動し、非常に厄介だし、そうゆう人間は、問題の究明を他人になすりつける。

ま、この傾向が日本人らしい今の大多数なのだろうと民俗学の災害を神々の仕業とし手に負えないものと表現する「知恵」とすらし美学として扱われているような気がする。
それは、歴史からも引き継がれて柳田國男も好きな私としては、認めざる負えない。というよりは積極的に肯定派だ。

が、なにが違うかというと「想像力」だと言わざるおえない。

つまり、私たちは一画的に生きてないことを知れないのは、大人として発達不足だとしか私には思えない。

まるで悪のようにASDを思ったこともあったが、彼らには彼らの優しさがあることを感じている。(それが父なもので生まれてからかけ違いられたボタンは根が深いだけとも言えるし、それだけの時間をかけても理解できない行動を取り続けるのがASD傾向の強い父であることは認めざる負えないし、残念だ。)

さて、見分け方だ。
それは一つ、常識を照らし合わせるしかない
・養育費を払わさないのはよくないことだし
・大学を払うと調停で決めたのなら、無断でやり過ごすのもよくない
・特に親しくないのに、今彼と元彼の友達を会わせない方がいいし
・紹介した友達を酔っ払った勢いで喰うな
・シャハウスでカップルで住んで偉そう

とかね。これらってさーなんかどれも実際自分がやられてすごい失礼極まりなかったんだけど、第三者として聞いたら、あらなんか大変そうだねって感じで多分共感薄いトピックスなんだと気づいた。

つまり、自分が関係性を大事に思っていなかったらどうでもいいと取れるし、関係性を大事にすると裏切られた感数十倍事件とでも言いましょうか。

これがASDとHSPの最強に相性の悪い事件簿の正体だった。
(ちなみに何度か言ってるけど、恋愛で相性がミラクル合致するパターンも医者の見解であるから、全くドラマチックと思っている)

で、私はHSPなので、やはり、自分の領域侵害されているところで、「常識的におかしいだろ!」と主張し続けないといけないと結論に至った。
で、もう一つの注意点としては、相手のことを考えずにマジで、自分の「領域侵害」について全力で言わないとマジで拗らせるHSP!!!
ここまで陥っているASDはマジであざとい!ASDが悪いとも言わない。が、それくらいHSPとASDは、その時点で対極にいることを私は忘れないようにしないと、

はい。カサンドラ行き〜ということであり、
もう一つ加えて、カサンドラになったら誰も助けてくれないし、にっくき原因ASDに責任を取らせることも手遅れな時期が多い。

私はこう言ったケースまで行った時、自分の責任も感じるようにしている。
ASDのケースではうまく説明できないが、
通常ケースで例えると
「親族がお金を貸して欲しいと言って、返済の目処のない親族に、ためと思って貸したが、返してくれない」
「なんてひどい親族だ」ではなく、「返済できない親族」を作ったのは自分なのだ。正解は「貸さない」こと。
このケースは、本当に上級だと思う。わかるけど、実際できるか自分はわからない。簡単に貸すと思うし、でも、実際それで拗れたら相手を普通に責めるけど、その時点で相手はもう「病気」の一種であるのが、世論に近いと思う。

これは実は江原啓介さんの人生相談の回答ではっとさせられたものだった。

毎回この心情がASDのパターンに類似する。はじめにちょっと危ういけど、人間の性善説やノビしろを信じて、大体こっちが配慮した上でのトラブルという共通点は、思い返しても心あたりがありありだった。

もう最初に拒絶していれば、それ以上お互いの被害がなかった。

相手への無駄な慈悲はACの影響も大きいなと最近思う。
私がその可能性を貰えていたらもっと違う未来があったと思える後ろががみがそうさせている。

人は欲しいものは、自分で欲しいと主張しないといけない。
本人が言わないことは、無視でいい。
勝手に何かを忖度する、するのは真剣な関係ではしないほうがいい。
するときは、失ってもいいものの時だけ。

それはHSPであり、ACである自分の自分が大事なものに気づいていなかったと言える。相手が喜べばと思っていただろうし、それがまさか自分の領域侵害を普通にするとは思わなかっただろう(もちろん、定型発達は守れる(病んでなければ)といえよう)。

つまりは、正当な拒否がASDとHSPの各々の領域を守る大事な役割になっていた。強いては多様性を受け入れるための一番大事な儀式とも言えた。

一応、また注意で発達障害支援者が、「常識」「常識」いう健常者モンスターに気をつけろというYouTube上げていてゾッとした。

1)第三のことに対して「常識」と連呼するのは確かによくない
2)こと相手の領域に関わることなら、一概に言えない。
むしろ、ASDが問題になってしまう傾向があることを自覚し
状況からASDが苦手なケースであることを受容すことを推奨してほしい
3)もちろん、本人個人で完結する幸せ追求に関することなら
堂々と享受してほしい。

ま、つまり支援者たちもこの三つの視点がごっちゃなんだよね。中途半端なボランティアは本当に嫌いだ。しかも、これを見てASD傾向の人は自分は悪くないと勘違いするケースを助長するものだと思った。

私たちHSPだって、病気だと認定されていなくても不得意で自爆しまくる環境は多分にある。その点は平等だ。

最後はカサンドラの人へ送りたい。
悪気のない攻撃性のある行為を続ける人がいる。そして、その人は私たちに正しい罪悪感を感じてその先に一緒に歩むことができない人種なのだ。
その人のことをまだ大事に思っているのなら、自分のことも精一杯守りながら、相手への拒否も大事な愛情表現であることを受け止めて欲しい。
それが、した後の行動への避難しか今ないなら、一刻も早く離れてほしい。
カサンドラになったら、誰もあなたを救えない。

仕返しもできないから(私的にはここは、私の人間部分として大事💙







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