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もしかしたら、君にも会えるね。

JUMP

ある日のことだ。土曜日出勤のため気怠そうに会社へと車を走らせている時のことだった。


最近では聴きたい音楽など無くなり運転中はもっぱらyoutubeをラジオ代わりに流し、やれ会社経営の話だの、税金の話だのと日々の情報を集めていた。

しかし、なんだかそれも鬱陶しくなっていた。なんとなくラジオをかけてみようと思い、僕はFMへとチャンネルを合わせた。

すると、何かの曲が始まったばかりで軽快なリフとともにイントロが流れ出した。

キャッチーなギターリフにホーンが加わり、Aメロへとバトンタッチして歌が流れる。


「夜から朝に変わる、いつもの時間にー」


清志郎だ。声を聴いただけで一発で分かる。癖のある歌声なのに、スッと胸に落ちるメロディと温かみのある人間臭さと、それでいて繊細な印象を受けた。

バイパスを走る車に朝日が差し込み、なんだか僕に何かしらの教えを説いている気さえした。不思議な感覚になった。


僕は中学に入り、アコギを手にした。日々の鬱積した想いを消化したくて、あるいは浄化したくて曲を作り、自分が作った曲で「どうにかしたい」という想いが日に日に強くなった。

高校に入り、エレキを買って初めてのバンドも組んだ。

ゴイステ、ハイスタ、ブルーハーツは高校生の僕にとってはバイブルそのものだった。


第一声で清志郎と分かったものの、清志郎の音楽はRCサクセションも含めてあまり聴いたことはなかった。

知っている曲は「スローバラード」「雨あがりの夜空に」「気持ちE」ぐらいだ。

「スローバラード」は父が80年代ばかりの曲を集めたコンセプトアルバムを聴いていた影響で知っていた。「雨あがりの夜空に」はお笑いコンビの雨上がり決死隊の名前の由来になったということ、「気持ちE」は映画「アイデン&ティティ」の一幕で歌っていたので知っていた。


僕は特徴のある歌い方のアーティストが苦手だ。

B'zの稲葉、桑田佳祐、もちろん日本を代表するトップアーティストということは百も承知なのだけれど、なんだか癖が強すぎて耳に馴染まない。そんな影響で清志郎もあんまり好きなタイプのシンガーではなかった。

しかし、その一方で一声聴いただけで存在感を強く感じさせるアーティストの凄さも多分に感じていた。どの曲を歌っても「その人の曲になる」というのにはボーカルを経験した自分には憧れるものがある。

そんな僕だから清志郎の歌声を聴いてスッと胸に落ちた感覚は不思議だった。高校生の時であればこんな感覚にならなかっただろうし、5年前でもまだピンと来ていなかったかもしれない。

今の僕で出会えた音楽で、出会えた歌声だから沁みるものがあった。


覚束ないジャンプ


それからというもの僕は車の中で清志郎の「JUMP」を聴く機会が多くなった。一人での車内はもちろん、家族と出かける時も流すことが多くなった。

何度目かに流した時のことだった。


サビの部分で「じゃ~んぷ」と歌う、か弱い声が後部座席から聞こえた。妻と二人してその声の主に目を配ると、後部座席で3歳となる息子がニコニコしていた。

僕はたまらなく嬉しくなった。自分が作った歌ではないけれど、自分が好きだと思ったこの曲を歌ってくれることが、共鳴してくれたことがたまらなく嬉しかった。


曲が終わり「もっかい」と息子が催促するので、もう一回曲を流した。僕はサビに入る時に「じゃ~んぷ」と腕を上げるような仕草をして息子に目をやると、息子も同じように「じゃ~んぷ」と両腕を上にあげて笑っていた。

それからというもの、リビングでもyoutubeで「JUMP」を流す機会が多くなった。サビに来ると両腕を精一杯高くあげて飛び跳ねる我が子。

ジャンプを覚えたばかりのまだまだ覚束ない生命だ。

そんな我が子を見て、もっと高くジャンプして欲しいと願いながら、僕自身ももう一度ジャンプしようと思えてくる。


もしかしたら、君にも会える。


最後になったが、僕はこの歌詞の中で気に入っている一節がある。


それはサビ前の「もしかしたら君にも会えるね」という部分だ。

この曲は3コーラスあるが、サビ前には必ずこのフレーズが入る。


ライブでは清志郎が「君」のところで客席に指を差すというパフォーマンスをするのが印象的だ。


君はいったい誰を指すのだろうか。


なかなか会う時間が作れない物理的な距離がある「君」
もう会えない「君」
会わない方がいい「君」
あの世に行ってしまった「君」


この、もしかしたらという言葉には、皮肉にも会えないという事実が強調されている。

しかし、そんなことは百も承知で、「・・・でも少しぐらい期待してもいいよね?」という薄らと笑みを浮かべるはにかみさえ感じる。そこには「君」が心の支えになっている芯の強さも垣間見える。


そして「君にも」という「も」には副産物的な要素が含まれている。
何かの目標に向かっている中で嬉しい誤算として「君にも会えるかもしれない」

「今」に一生懸命向き合っていたら進んだその先で「君にも」会えるかもしれない。逆を言えば「今」に向き合っていなければ君に合わせる顔がない。


こんな姿じゃ見せれないよな、
次会うまでにもう少し面白いみやげ話も用意しとかなくちゃな、
今度会えたら言えなかったこと伝えたいな、


どれも自己満かもしれないが、そう思える「君」という存在が僕にも確かにいる。
そしてそれが奥底で支えている。


歳を重ねるということは、この「君」が増えていくことなのかもしれない。


今、目の前のことに誠実に向き合っていたら、そのうち(死後の世界でも)「もしかしたら君にも会えるね」

少しはにかみながらそんなことを想っている。


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