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半端な覚悟で踏み込むな‼

はじめに

近年、○○ハラスメントに続き、○○差別という言葉をよく耳にするようになりました。ハラスメントも取り上げられた当初は改善すべき課題と思われるものが多かったのですが、ここ最近の○○ハラスメントはもはや言いがかりに近いレベルで息をするのもハラスメントと言われるのではないかと思うようになるぐらい肩身が狭くなっています。そして、それが○○差別になるとそれに触れることすらタブーとされてしまいます。言論の自由が認められているはずなのに、気が付けば弾圧されています。こういった言いがかりに近い、ハラスメントや差別は誰がどのようにして生み出しているか取り上げていきたいと思います。

普通は思いつかない

以前に何度か取り上げた方が、「介護職は昔は人気だったが、職業差別に遭い、今では不人気どころか底辺扱いされている」とつぶやいておられました。確かに介護業界が人手不足で、人気がないことは認めざるを得ませんが、本当に職業差別に遭っているのでしょうか?差別というのは、生まれた身分や人種などで不利益を被ることであり、自分の力ではその不利益を避けられないようなことを指します。インドのカースト制のような身分制度により、職業選択の幅が狭まるような場合は職業差別があると言えなくはないでしょう。
しかし、介護職はある一定以下の身分の人しか就けない職でしょうか?いいえ、違います。誰でもその道を選ぶことはでき、そこに社会的属性は関係ありません。介護の世界で活かせる能力があるかどうかだけが判断基準になります。、彼は一見、弱い立場の人を擁護しているように見えるかもしれませんが、実はそういった人たちを侮蔑の目で見ているからこそ、そういった発想が生まれるのではないかと思います。彼は元々介護の世界にいた人だそうで、今は別の業界にいるようです。そういう意識があるからこそ、何かにつけて差別だと言いたくなるのだと思います。僕の恋人も介護業界で働いて、いつも大変そうにしていますが、職業差別に遭っているとは思いませんし、そんなことを考えたこともありません。

上記のツイートのようにある事象を差別と言い出す人の多くのは、自らの侮蔑意識を外に向けるために、社会的な差別へと変えようとします。そういう意味では、自己防衛の一種と言えます。しかし、自らの心に差別意識がなければ、そのようなことは生まれません。つまり、差別と主張することは自らに差別意識があることを示すことになり、その差別を改善しようと本気で取り組まない限り、被差別対象者を侮辱することに他なりません。差別問題への取り組みは差別を提唱し、意識を持たせることで終われば、それは新たな差別問題を作り、苦しむ人を増やすだけです。差別をなくすために改善活動をすることは大事ですが、左翼のような活動家が絡むと被害を受けるのは被差別対象者になり、救済どころか叩き落とすことに他なりません。
ワンピースに登場する魚人のジンベイは、魚人が差別されていた歴史に首を突っ込んだ敵のフーズ・フーに対して、「歴史に口を挟むなら半端な覚悟で踏み込んでくるな」と言い、鉄拳制裁を食らわせました。この場面からもわかるように、差別を主張するなら半端な気持ちで主張するのではなく、しっかりとした対策を持ちながら、差別問題に取り組むべきだと思います。前出の彼は半端な気持ちでツイートしているだけだと思います。センシティブな問題に軽い気持ちで足を踏み入れることほど迷惑なことはありません。



野生の揚げ足テイカーが現れた

軽々しく○○差別と言う人間にまともな人はいないでしょう。端的に言えば、自己中心的な人です。彼らがなぜ、そのようなことを言うのかは非常に簡単です。自分にとって都合のいいようになればよく、周りのことはどうでもいいのです。相手の言った気に食わないに対して、揚げ足を取るように○○差別だと言ったり、○○ハラスメントだと言ったりするのです。
セクハラやパワハラはこれまでは表面化しない問題であり、それで辛い思いをしたり、自らの命を絶ったりする人がいて、それが社会問題として、認知されるようになり、今では取り組むべき課題となりました。今でも悲しいことにセクハラやパワハラは起こっています。本当に困っている人を助けるべきです。
しかし、その裏で社会通念上問題のないと思われるようなちょっとしたことをパワハラだの、セクハラだのと言う人がいます。その人たちのせいで、セクハラやパワハラの被害を訴えると厄介な人間と思われてしまい、さらに言い出しにくい状況が生まれています。本当に困っている人に救いの手が差し伸べられたと思ったら、厄介な連中のせいで声を上げづらくなっていて、社会問題化する前と似たような状況になっています。むしろ、セクハラやパワハラという概念があるにも関わらず、声を上げないがゆえに無視されるどころか闇に葬り去られ、認知すらされないとなると以前より酷い状況になっているとも言えます。
ハラスメントは嫌がらせ行為のことである一方、受け手がどう思ったかも重要な判断材料になります。本人に嫌がらせをする意図がなくとも、相手がそう受け取ればハラスメントになります。好き人と嫌いな人から同じことをされても、同じ気持ちになることはありません。嫌いな人に何かをされると多少の不快感が生じます。ハラスメントは嫌いな人を陥れる手段にもなりえるのです。現代のハラスメントを見ていると嫌がらせ行為から嫌がらせ行為を口実としたリンチに思えます。パワハラやセクハラが取り上げられた当初のハラスメントの意味から逸れている気がします。ハラスメントは弱者に救いの手が差し伸べられた光でしたが、今では嫌いの人を陥れる落とし穴になっています。同じ言葉でも定義が異なれば、結果も異なります。人を救うもので人を陥れてはなりません。



最後に

差別やハラスメントはセンシティブな問題だと思います。決して自己防衛のために使われてはいけませんし、誰かを貶めるために使ってもいけません。何でもかんでも差別やハラスメントと言って、言ったもの勝ちにするのは間違っています。何でも声を上げればいいというものではありません。差別を取り上げ、差別があることを認識させることが問題と言いませんが、生半可な気持ちで接すると新たな差別を生みかねません。差別を知ってしまった以上、自分なりの解決方法や接し方を見つけるべきだと思います。無知が差別を助長すると言われますが、それ以上に活動家のような差別の取り上げ方をする方が差別を助長してしまいます。差別やハラスメントへの取り組みは非常に難しいものだと思います。変な接し方をして、その人たちへの風当たりを強くしてしまうこともあります。左翼活動家がよくやっている女性運動がその典型です。大半の女性は彼らのせいで厄介な人だと思われてうんざりしていて、彼らは味方ではなく敵だと思っている女性も少なくありません。差別やハラスメントを主張する以上、それ相応の責任と覚悟を持つべきだと思います。自分の言動に責任を持つことが社会人としての基礎だからです。生半可な気持ちで接するなら関わらない方がまだましで関わると決めた以上は真剣に向き合わなければなりません。

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