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見ないとわからない

はじめに

皆さんはどこから情報を得ていますか?と聞かれると、「テレビ」、「新聞」、「ネット」と答えられるのではないでしょうか?それらの情報をどこから得ているかとなると、ほとんどの方は目から情報を得ているはずです。総理大臣の岸田さんが総裁選のときに「聞く力」があると言っていましたが、耳からの情報は目からの情報の1/8ほどで、目からの情報は全体8割ほどで、耳から情報は1割ほどです。今回もこれまでの記事も読み上げ機能を使わない限り、目で読まれていると思います。言い方を変えれば、聞く力があっても目の前で錯覚を起こすようなものを見せられると音よりも目からの情報を優先します。今回は見る力がどれだけ重要かについて書いていきます。

子どもの頃を思い出そう

子どもの頃に、観察ケースにいる生き物をじーっと見ていた経験はないでしょうか?そして、ちょっとした変化に気付いたはずです。水族館や動物園でもじーっと見ていると変化があったことに気付きますが、ほとんどの人はそれに気づきません。ずっと見ていないとその変化に気付くことがないからです。実はこの方法は西洋哲学でも取り上げられ、観察による様々な事象を解き明かそうとしています。観察した事象から一般的な法則を見つけることを帰納と言い、この方法を定式化したのがイギリスの哲学者フランシス・ベーコンです。自然科学だけなく、人文科学や歴史学においてもこの方法が採用されています。
正義の女神ジャスティスは目隠しをしているものとしていないものが存在します。目隠しをしているものは社会的身分などに惑わされず、法の下の平等を表しているとされています。それに対して、目隠しをしていないものはすべてを見て判断しなければならないからとされています。見たものすべてが正しいわけではありませんが、見ることの重要性や目からの情報の重要性がわかる例だと思います。
人の性格や本音を判断するためにするときに、その人の言っていることよりも行動を重視するはずです。左翼活動家は口では立派なことを言ってますが、やっていることはおかしなことばかりで、彼らは弱者の味方をするつもりはなく、お金になる話題に飛びついているだけと行動から判断されるわけです。耳から入ってくる情報より目からの情報の方が判断するときに与える影響は大きいはずです。まさに百聞は一見に如かずです。
みなさんの身の回りにもたいそう立派なことを仰る方がいらっしゃるかもしれません。その人の言動はほとんど一致していないはずです。「みんな大好き」と言っている人に限って、自分とそりの合わない人を徹底的にいじめ、追い出したり、「金は絶対に返す」と言いながら、テキトーな理由を付けてにげていったりするような人の本音はすべて行動に隠されています。人間は言葉を使い、コミュニケーションを取る唯一の生き物ですが、人間も生き物である以上、行動にほとんどの心理が現れます。むしろ、行動以外に現れる方が少ないと思います。つまり、行動を見れば、大体が把握できるわけです。本音を探る時は行動を見ることが大切です。


色眼鏡の見る力

見る力がない人は見ているようで全然見ていません。もっと言えば、頭がいいと思われたい頭の悪い人です。そういう人は結論ありきか前提がすでに間違っていて、見ていても答えにたどり着けません。何をやってもうまくいかない人はまず前提を見直す必要があります。前提が自分で勝手に作り出したものと現実に乖離があると導き出される結論は異なります。何をやってもうまくいくはずがありません。スタート地点を見直すことが重要課題です。特に前提を設けないで見ることが見る力を養う一番の方法です。
先に前提を決めて、各事象を見ていく方法を演繹と言います。帰納とは対立する概念です。しかし、両者は決して交わることがないものではなく、帰納→演繹→帰納→演繹を繰り返します。各事象を分析し、そこで導き出された答えを当てはめて、また各事象を分析し、導き出された答えと違えば、それを修正し、また別の答えを導き出します。両者は対立する概念ではありますが、両者の過程の中に存在するものでもあります。色眼鏡で分析を使用する人はそこに至るまでの前提が圧倒的に不足し、演繹をしても的を射ない答えを導くことになります。
演繹法を使う上でも帰納法は必要ですし、帰納法を使う上で演繹法は必要です。どちらかが欠けてしまうと分析は上手くいきません。見る力がなければ、まともな分析などできるはずがありません。百聞は一見に如かずとはよくいったもので、実際の事象や物を見なければ、それが一体どういうことなのか、わからないまま進んでいきます。自分で作り出した前提はこれまでのデータから導き出された答えであり、そのデータ量が少なければ、導き出される答えも少なくなります。実際に起こっていることと導き出した答えに大きな齟齬が生じても不思議ではありません。前提となる基礎的な知識の有無が分析を大きく左右します。
基礎的な知識がなければ振り返りを含めた分析がいいものになるはずがありません。何が問題であったかを振り返る時に変化のあったポイントと出発点を見ていき、そこで問題がなければ、他のポイントを見ると何が原因であったかが分かるはずです。例えば、三日坊主な理由はそこに隠れていますし、その原因への対処をしない限り、同じことを繰り返すことになります。
それを自分に怠け癖があるからと結論付けるのはいいことではありません。怠け癖という精神論に持って行っては何も変わりません。三日坊主になりやすい人は精神論ではなく、システム的なところを見直すと改善されます。割く時間がないのであればすき間の時間を使えばいいですし、そもそもの設定に無理があれば、設定を変えればいいだけの話です。色眼鏡で分析をする人はけつろんありきで進めていて、分析をしているようでしていません。しっかりと分析をするのであれば、何も考えずに、ただ見るという行動から始めてそこから得られたデータを基に分析することになります。冒頭でも書いたように頭を真っ白にすることが一番の近道です。

最後に

聞く力に対抗して、見る力について書こうと思いました。見ることが人間には必要なことだと思います。聞く力も必要ですが、人間は口先で立派なことを言えますが、行動に起こさない人が大半です。聞く力は余計なものが入ってくるリスクがあります。見る力は行動や現状を見ることである程度、把握でき、口先だけなのか、芯があるのかも判断できます。聞く力は一次審査で目の粗いフィルターです。見る力は二次審査や最終審査で目の細かいフィルターです。どちらか一方を重視するのではなく、併用することが重要だと思います。負担が一点に集中しないように使い分けることが必要です。聞く力を重視しすぎるがあまり雑音まで拾っていては意味がありません。聞く力と見る力を合わせる必要があります。ジャスティスのように最初は目隠しをした状態で、最終判断は目隠しを外した状態するのがいいかもしれません。2つの像が存在するのはこういったことではないかと思います。

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