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自分の得意分野が社会的に正しいとは限らないという話

興味深いnoteを拝見した。「いま10万円もらえるのと、1年後に11万円もらえるのとではどちらを選ぶか?」という設問で、「いま10万円もらう」を選んだ日本人がけっこく多くて、これは金融リテラシーが低いことを示している…という内容で、著者は金融系のお仕事をしてらっしゃる方だ。

僕は「もらうなら当然『いま10万円』だろう!」と考えていて、逆に1年後の11万円を貰うという選択をする人が信じられない。要するに僕には金融リテラシーがないことになる。

ただ僕が総合的に考えると、10万円もらえるなんて話はそもそも胡散臭く、1年後の世界経済の状況やその気前のいいスポンサーの気持ちが変わらない…なんて保証はどこにもない。口約束が履行される保証はないのだ。

つまり僕は1年かけて得られる1万円プラスのメリットと、1年後にはなくなる可能性がある10万円のデメリットを考えて利益を最大化し、『いま10万円』を選んだことになる。確かに僕には金融リテラシーはないかもしれないが、ビジネスのセンスや危険回避能力はあるのではないか?と自負している。

おそらく先の著者の住んでる世界では、口約束でも1年後の契約はちゃんと履行され、金利の変動もなく、ウソツキも裏切者もいないユートピアに皆が住んでいる…という前提が言外にあるのだろう。前提が異なると、解釈も判断も異なるので、前提はちゃんと明記しましょう。誰が読んでも同じものが出来上がる仕様書にしようね…というのは別の話ですね。

たぶんユートピアに住んでいる金融リテラシーが高い人は「秘密情報ですが、この会社は1年後には上場する予定で、今300万円投資すると、確実に500万円以上になって戻ってきます!」「この会社に投資すると、年率25%のリターンがあります」というセールスマンの言葉を疑う理由はない。バンバンお金を預けてしまうのが当然です。でも僕たちはユートピアに住んでいるわけではないので、失う額やリスクの大きさを考えると、金融リテラシーは低い方がいいんじゃないか?とか思ってしまう。

ただこのnoteは先の著者の方を批判したり、金融リテラシーを笑いものにする意図はありません。そもそもこのnoteは「後出し」なので、先の著者よりは僕の方が有利なことを書けちゃうしね。僕がこのnoteで言いたいのは、「自分が専門にしていること・得意分野にしていることの常識は、社会的には正しい事とは限らない」ということだ。

例えば僕はいま画像認識技術をいろいろと研究している。複数の監視カメラで撮影した映像から、同一人物を特定するような技術だ。その可能性や技術的な意義について酒飲みながら気持ちよく語っていたところ、ある時友人に「でもその技術ってオーソン・ウェルズの『1984年』みたいな恐ろしい監視社会の実現につながるんじゃないの?」って言われて、何言ってんだ、こいつ?と思いました。

僕が研究しているのは技術であって、独裁者による監視の手助けじゃない。もっと言うと、技術が売れて僕が経済的に成功すればいいのであって、その技術がどう使われるかは僕は知ったことではない。

でもマンハッタン計画のオッペンハイマーみたいに、後年苦悩するかもしれない。研究者としては『人々や社会に与えた影響が大きすぎて後年苦悩しちゃうような技術を開発してみたいものだ』という悪魔のささやきがあるのだけど(笑)、実際は僕はとても気が小さいので、大勢から「大量殺人者!」などと批判されるような事態になると困ってしまうだろう。

ある考え方・ある技術は、特定の狭い分野においては正しく有効ではあるけど、変化が激しい社会・1年先の予測がつかない社会においては常に正しいとは限らない。どちらかというと、「ある考え方や技術が正しく、有効である社会はごく狭く、逆の効果をもたらす社会の方が一般的である」と考えた方が良いのかもしれない。

自分への反省を踏まえてこのnoteを書いています。

ああ、でもやっぱり少しは欲しいな、金融リテラシー。低いって言われるとショックだもんね(笑)。



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