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ミシェル・フーコーの著作について

フーコーは哲学者紹介のコンセプトと相性が悪い、と思っています。

はじめに

 フーコーの紹介記事はローティのように複数に分けます。とはいえ、成り行きにならないように「3つ」と決めておきましょう。
 この記事では、「哲学的側面について、主に著作(テキスト)の成立経緯」を扱い、2つ目は、可能な限りこれまでの哲学者紹介のやり方に沿った「人物紹介」を試みます。ただし、「読むならこれ!」は抜きです。最後に、私が注目するフーコーの研究テーマにスポットを当てますが、ローティのときのように批判のかたちでお示しすることはできないでしょう。

フーコーは哲学者なのか

 そもそもフーコーは哲学者といえるのでしょうか。これについては2つの側面から、肯定といえます。一つは、ローティと同じような意味で。つまり、哲学以外の知識や語彙も豊富だけど、基本的には哲学の語彙がベースだから。もう一つは、ニーチェが哲学者に分類されるなら、同じ理由でそうだから、です。

なぜこの記事はチープなのか

 以下では、フーコーの主要な単行本を紹介し、それによってフーコーが取り組んだテーマの変遷を描きます。ただし、世にごまんとあるフーコー解説の劣化品であることを許してください。また、本を出すに至る以前、および、時代背景との連動は、人物紹介の記事をお待ち下さい。
 どうして、他の哲学者のように特定のテーマに焦点を絞って紹介できないのか。それは私がフーコーとの「距離」がつかめていないからです。実を言うと、ニーチェもそうなのです。ニーチェはフーコーから逆算して『道徳の系譜』を挙げました。フーコーも同じように(例えばアガンベンから)逆算することができなくはないのですが、他の哲学者のように切り取ることがうまくできない。だから、この記事はチープなものになってしまうのです。

では、主な単行本からいきましょう。

『狂気の歴史』

 原題『古典時代における狂気の歴史』。博士論文→処女作というパターンの本。
 (古代ギリシャに由来する)西欧の「理性」が「狂気」から描かれていたという歴史を描いた本。つまり、狂気を「他者」として、排除し、監禁し、研究することでいかに自らの知(狂気以外=知=理性)をつくりあげていったかというもの。

『言葉と物』

 形式的には『狂気の歴史』の対になる本。理性がその歴史の中でどのような「知の基盤」と「断層」を内側に抱えてきたかという、(他者の反対としての)「同一者」の歴史を描いた本。
 売れに売れたベストセラーで、構造主義の教義の一冊とされた。ただし、おそろしいことに、「ことば」と「もの」の関係について書かれた本ではない。「ことばとものの関係」がどのように変わっていったのか、が主なテーマ。

『知の考古学』

 フーコーによる、読者を裏切るために書かれた本。構造主義と(フーコー流の)考古学が別のものであることを示したもの。
 経緯としては……デリダによるフッサールの『幾何学の起源』フランス語訳が出版される。フーコーはしっかり読むが、「余りにも失望的なテクスト」だったので、「考古学」的アプローチで頑張ろうと思う。その次の年、デリダが『狂気の歴史』の(デカルトの『省察』について書いた)部分についてフーコーを「構造主義的全体主義」と批判。それを受けて、構造主義(的な研究スタイル)でないことを明らかにしつつ、ベストセラーにならないようにわざと難解に書くという(いらん)仕掛けを加えて出版されたもの。

『監獄の誕生』

 副題「監視と処罰」。原著ではそれが逆。扱うテーマが、「知」や「学問(分野)」から、物理的構造物や実際の制度に移っていく。
 ラフに言うなら、なぜ学校は軍隊と似ているのか(クラスで分かれている)や、私たちの多くの職場で朝ラジオ体操をするのかが分かる。(ちゃんと書くと)近代社会の組織の基本に貫かれているのは、監獄をモデルにした、学校、工場、軍隊といった、身体の政治技術の歴史的成立についての本。あるいは、権力と人間管理の知としての人間科学がテーマ。

『性の歴史』

 全4冊中、生前に出版されたのは3冊。1巻は『監獄の誕生』の翌年だが、2巻以降は8年以上の期間が空いている。「セクシャリティ」が話題には挙がるものの、メインは「生政治」や「統治性」といったものがテーマ。主体が(統治する/される主体として)つくりだされるプロセスについての本。

フーコーの遺言

 出版の経緯で、知っておかねばならないことはフーコーの遺言の一つが「死後出版は認めず」であったこと。『性の歴史』第4巻は、ほぼ完成していたが、最近になるまで出版されなかったのはこれが理由。逆になぜ出版されたのかというと、権利相続者が出版の時期が訪れた(?)と判断したため。

中間コメント

単行本はお薦めできない

 『狂気の歴史』は、後のフーコーを知っているなら素朴すぎる。本としては成立しているが、お薦めの一冊にはならない。『言葉と物』は、構造主義と誤解されたというより、されても無理のない内容。つまり、フーコーの代表作にはならない。『知の考古学』は、経緯的にそもそも選考基準外。『性の歴史』は未完成品。4巻が出た現代でも、まごうことなき未完成品。
 消去法的に『監獄の誕生』はありうる。実際にこれを主軸にした研究者や解説本がある。たしかに学校などは今でもまんま。とはいえ、企業などの組織は流石にその後の進歩が著しいのを知っている現代の私たちにとって、過去の歴史以上の意味が本としてはない。「本としては……」というのは、『監獄の誕生』でフーコーがやっているように、現代の組織を分析することは可能だが、それはいくらなんでも研究者レベルの話。

道具に良し悪しはない

 フーコー自身が、単行本で提示したものは、今後の研究者のための道具、という主旨のことを言っています。つまり、フーコーの成果を悪いことに使おうとすれば使える。私の言葉を使うと「セーフティロックがかかっていない」。
 例えば、最近のLGBTQに関する諸運動は、フーコーの「セクシャリティ」の概念があったからこそのもの、という人がいる。確かにその通りかもしれない。一方で私は「統治性」については、敵(支配する側)に塩を送った、と考えています。しかも対抗側が、まだ「統治性」をうまく理解できていない。あるいはそもそも、フーコーが統治性について出口を示さなかった。これは現代思想の袋小路の一つです。

方法論としては特別なものではない

 フーコーに好意的な研究者は、フーコー以前と以後で「私たち自身の時代、私たちの文化、私たちの政治、私たちの科学を考えるための、歴史的な条件をラディカルに変えてしまった」と評価します。
 ところが(あえて「距離」をとると)フーコーの示したものの見方、歴史性というものは、同時代の科学哲学や歴史学の成果と同じもの。フーコーが特別なのは、大量の文献やときにアンケート調査などで、ガチエビデンスを提示したことです。「エピステーメー」とか「ディスクール」とか「規律(ディシプリン)」とかの言葉をありがたがるのは、現代思想の悪い癖(私も使ってるけど)。

単行本以外のテキスト

 話を戻して、この記事で紹介したいのはここから。例の「遺言」のグレーゾーンを攻めた「単行本以外のテキスト」が大きく分けて2つあります。

『ミシェル・フーコー思考集成』

 出版された単行本以外の、新聞や雑誌や論文、その他で生前発表されたテクスト。原則、年代順で全て収められている。そして、(全部だととっちらかるので)抽出しつつ整理されたのが文庫サイズの『フーコー・コレクション』。

『ミシェル・フーコー講義集成』

 コレージュ・ド・フランスで行われた講義のほぼ完全な書き起こし。時期的には『知の考古学』以降〜最晩年まで。ほぼ完全に書き起こされているので、最後の方、フーコーの体調が悪くなっていくところは、心が苦しくなります。
 注目すべきは、講義ゆえに(単行本との比較で)明確に分かりやすいところ。そして、単行本だけみると「空白の8年間」があるものの、その間も講義は行われていたこと。例えば『性の歴史』のテーマは9巻「生者たちの統治」に相当します。このように、難解な単行本の、フーコー本人による詳細な説明として読むことができるところです。

さいごに

 『講義集成』は、フーコーを知る上で、お薦めできます。大講堂でフーコーの授業を聞く聴講生の疑似体験ができます。また、極論、単行本を一冊も読んでなくても大丈夫です。最近翻訳されたこともあって、訳も安定しています。ただ、ほとんど定価で買えないんですけど😠 これは筑摩書房さん……。値上げでも狙っているんですか? ちゃんと買えるようにしてください。

 あとは……タイトルでおおよそどのテーマに対応しているかは分かるのですが8巻「生政治の誕生」は、注意です。ほとんど「生政治」ではなくて、当時リアルタイムだった「新自由主義」の系譜という内容になっていますので。それを分かった上なら、歴史家フーコーによる貴重な現代の課題への資料なのですが。ま、これももう定価で買えませんけどね。

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