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[読書ノート]10回目 2月16日の講義(第一時限)

講義集成12 1982-83年度 284頁~301頁

今回のまとめ

  • 哲学者(助言者)はお医者さん

  • 哲学を学ぶとは、たゆまぬ努力

  • 宗教との違いはどこにあるのかな?

哲学がエルゴンであると言える条件

 この複雑な「第七書簡」に見られる事柄を二つの大きな問いに分類する。
 ①哲学がエルゴンであると言える条件。どのような条件において、哲学的言説はそれ自身の現実に出会い、それ自身と他者に対する現実を証明することができるのか。②哲学的言説は、どのような条件において、現実の試練を受け、成功を収めることができるのか。
 これらについて、哲学的言説が現実的でありうるための条件を明らかにするため、いくつかのテクストを検討する。

「第七書簡」330c-331d

 最初の条件は、その哲学的な真実の語りが誰に向けられているか、に関わる。もし哲学がそれに耳を貸そうとする人に向けられるのでなければ、ひとは語ることができないし、哲学は現実的な言説ではあり得ず、実際に真実の語りではありえない。つまり、【相手は】万人や誰でもいい相手に向けられるのではなく、それを聞きたいと欲している人だけに向けられなければならない、ということ。ここでプラトンのテクストにしばしば見られる常套句――「医学的行為」と結びつけた比喩が出てくる。

医学の特徴(当時の一般論)

 プラトンのテクストだけでなく、当時やそれ以前のテクストまでも含め一般的にあてはまる特徴が3つある。
 ①情勢や機会の術(同時に推測の術)。所与の徴候を通じて病を認定し、その経過を予測し、その結果としてふさわしい治療法を選択すること。もちろん、さまざまな知識にもとづいてはいるが、個別の条件を考慮し、解読という行為が必要になる。
 ②説得の術。良い医者というのは、自分の患者を説得することができる人物でもある。患者は、何で苦しんでいるのかやどのように生活してきたかを伝え、医者は、なぜ病気になったのか、治すために何をしなければならないかを説明し、そのようにして自分で養生しなければならない、と実際に病人が納得するようにする。
 ③養生法に関わる術。病人が本当に病から癒え、今後ほかの病気を予防できるようなるためには、その病人が生活の全般にわたる事柄を変えることを受け入れなければならない。

助言者による国家の治療

 これらをふまえて「第七書簡」に戻り、政治についての助言者の役割を考えると――(助言者は)物事が通常通り進行している際ではなく、物事が悪い方向に向かったとき、つまり病が存在する時にのみ介入すべき、といえる。助言者は、国家の不都合はどのようなものかを診断し、介入する機会を見付け、物事の秩序を回復させねばならない。それは①批判的=危機的クリテイツクな役割である。次に②【解決法を】処方すると同時に説得するという役割でなければならない。つまり、哲学者は、国家に対してどのように統治されるべきか、どのような法に従うべきかを示す、単なる立法者ではない。統治する者とされる者、その両者をともに説得するのが役割である。さらに③国家の養生法の全体も考え直さなければならないのであって、要するに、哲学者が介入する際の対象は、国家の養生法の全体であり、ポリテイア〔国制〕である。(講義原稿には『国家』の426a-427aが参照されて「もしポリテイアとその統治されている仕方を変えられる可能性がないのなら、治療に値しない」とある)

「第五書簡」との矛盾?

 ③の特徴について……「第五書簡」ではポリテイアのフォネーに合わせるべし、とあったが、「第七書簡」ではポリテイアを考え直すことまで言及されている。「第七書簡」に内在するにしろ、プラトンがここで「ポリテイア」という言葉でしめしているのは、厳密な法的枠組みや制度のことではなく、国家の体制そのもの――もろもろの法で構成されているが、しかし同時に、統治する者とされる者たちが持つ、良き法に従わなければならないという確信や、実際に人々が法に従う仕方といった、広い意味でのポリテイアであろう。【つまり、齟齬なり矛盾なりをフーコーは重要視していない】

第一の循環構造:聴衆における循環構造

 つまるところ助言者は、政治的な意志に対して語りかけるべき、といえる(その際、君主制か寡頭制か貴族制か民主制かなどは問わない)。哲学者が語りかけるのが、ポリテイアを活気づけそれに生を与える政治的な意志に対してであるなら――哲学が現実の中に存在し、それ自身の「現実」に出会うのは、その哲学によって説得されることを望む人物の期待と聴衆とが、言説を保持する哲学者に応えているという条件においてのみ。したがって、哲学的言説にとっての最初の現実の試練とは、その哲学が出会う聴衆ということになる。

哲学的言説といえないもの

 権力や圧政に対する抗議や批判、叫びや怒りでしかないような言説は、哲学であることができない。また、不法に国家に侵入するような――必然的にその周囲が脅迫と死とに取り巻かれているような暴力の言説も(聞き取られることがないので)、哲学として現実に出会うことはできない。

哲学とは実践行為である

 では哲学者は、自分の言うことを聞いてくれる人々をどのように見分けることができるのか。プラトンは、哲学とは実践行為プラグマータであること――さまざまな物事、活動、困難、実践、鍛錬であって、すなわち、自ら訓練し専心しなければならないものであることを示す。つまり、そういう苦労ができない人は向かないと判断できる。

実践行為の3つの系列(の指示)

選択と継続

 哲学の実践は、踏破すべき道のように表現されるが、試練を課されようとする人物【聴衆】は、そうした哲学的な道をそれ以外の生き方をすることができないと選択し、全力を振り絞って歩みを早め、道の終わりまで、常に活動し努力を怠ってはならない。また、自分が指導者なしに自らを導き、自分自身を導くに足りるほどの力を得るまでは、自分を導いてくれる者の指導を捨ててはならない。

仕事(日常)と両立

 どんな仕事についているにせよ、一面ではその仕事に従事しながらも、他面では、何はさておきつねに哲学に熱心でなければならない。哲学的選択は、日常的な行為と両立しないことはないというにとどまらず、日常生活や人が日々行うべき行為の最中においても哲学を活用し、哲学を作用させるということこそが、そうした選択【実践】の内実である。
 この点について3つの能力、態度、適性のあり方が表現される。①容易に学ぶことができる【内容が簡単という意味ではなく、抵抗なく素早く学べるということ】②記憶にとどめることができる③理性を働かせ正しい決定をくだせる。
 さらに「第二の循環構造」が見られる。すなわち、自己自身についての循環構造。哲学における現実は、哲学の実践行為そのもののうちでのみ出会うものであり、そこでしか認められ、実現されることがない。哲学にとっての現実とは、その実践であるという循環。ポイントは【哲学に対しての伝統的なイメージにあるような】、ロゴスの実践としてあるような哲学……言説としての哲学の実践ではなく、対話としての哲学の実践でもない※、もろもろの鍛錬における哲学の実践であること。

フーコーは『アルキビアデス』を参照しながら、ソクラテスの哲学の実践――「汝自らを知れ」との違いに言及している。(自己への)まなざしではなく、道程であること。回心ではなく、起源と目的を持つこと、などです。

対象として「主体」

 何に対しての鍛錬なのか。それは主体そのものである。哲学がそれ自身にとっての「現実」に出会う場とは、主体が自己自身に関係を持ち、自己自身を練り上げ、自己自身に働きかけるためのもろもろの実践の総体としての哲学の実践である。自己の自己に対する働きかけ、それが哲学における現実である。

今回は以上です。次回は取り上げるテクストを変えつつ、第三の循環構造、そして哲学における現実についての第三の定義です。つまり、パレーシアに対しては余談的な話が続く……というより、講義全体の重心がそちらに移っていっています。

私的コメント

 みなさん……ついてきていますか? よく分からなくても「スキ」押してもらっていいんですよ。ただ、おそらく一番、私がおいていかれているよう感じているということをお知らせしておきます。
 さて気を取り直して、読解のための整理を。前半、助言者としての哲学者については、前回抽象的だった部分が、医学で喩えられることでイメージしやすくなったといえるでしょう。正確には、プラトンとしては喩えではなくて直結している(具体例ではなくてむしろ証拠な)のですが、まぁ、いいでしょう。もっとも、フーコー自身もインタビューなどで哲学の機能を医学的行為の比喩で語っています。そんなことよりも、医学であるということは、科学(知の累積や再現性があること)ではないのだこっちの方が理解の上では大事です。比喩に比喩を重ねて恐縮ですが、ようするに企業のコンサルは学者というより医者でしょ、そういうことです(疲れによる半ギレ)。
 次に、プラグマータ(実践)であることと、その詳細な中身――これは、これまでの回で「魂の教導」という言葉の対ですね。それを受ける方の特徴が並べられているということです。「今回のポイント」でフライングしている宗教との近さは、そもそも第一の循環構造から発生していて、第二の循環構造で磨きがかかってますね。とりあえず、今は保留して読み進めることにします。
 最後に、「真実を語ること」と「現実に出会うこと」……表現のバリエーションはいくつかありますが、これは、イコールです。いまさらではありますが、古代ギリシャにおける真実とは、いわゆる近代哲学的な真理(科学的事実)でもなければ、超越論的な普遍性でもありません。そういう言葉の、ずーっと前の話ですから。現代でいう客観的事実なんてのは、そもそも関係ないし、ある程度それらしきもの(例えば正しい法とか)があったとしてもそれは、今の文脈ではむしろ「単なるロゴス」として退けられる側にある、そういう理解でOKです。


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