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[読書ノート]2回目 1月12日の講義(第二時限)

講義集成12 1982-83年度 75頁~86頁

今回のまとめ

  • 行為遂行的言表とパレーシアとでは大事にされることが正反対

  • フーコーの関心の中心は政治の領域における真なる言説

  • 「勇気」とはいったい何か!? それは「恐怖」を我が物とすることじゃあッ!

行為遂行的パフォーマテイヴ言表との比較による検討

語用論の簡単な説明

行為遂行的言表が成立するためには、厳密に制度化された何らかのコンテクスト【文脈、状況】と必要なステイタスを持つか、ある明確に定まった状況にいる個人が存在しないといけない。言い換えると言うこと言われたことを実行することを保証する状況下で行為遂行的な事柄は成立する、ということ。

プルタルコスのテクストにおける共通点

まず、(行為遂行的言表とパレーシアとの)共通する要素が見られる。つまり、王がいる。それをとりまく廷臣たちがいる。一つの場面では、そこに哲学者【プラトン】が教えを述べにやって来て、廷臣たちはその教えを称賛する【というコンテクスト】。別の場面では、王がいて、廷臣たちがいる。その廷臣の一人【ディオン】が王に対して真実を述べる【というコンテクスト】。

行為遂行的な言表との決定的な違い

①結果が不確実
行為遂行的言表の場合、言表が発話されることによる結果が、あらかじめ知られ、規則付けられている(=コード化された結果が生じる/そのことが行為遂行的言表の定義である)。
他方でパレーシアにおいては、それが実現される状況がどんなに習慣的で、ほとんど制度化されたようなものであっても、パレーシアが行われることによって、開かれた状況が生じ、予期されないいくつかの【コード化されていない】結果が可能になる。つまりパレーシアは、不確定な危険リスクを開くのだ。不確定というのは、その状況におけるもろもろの要素次第で結果が変わるということ。具体的には、生殺与奪の権力を持つ暴君の気質や情念【分かりやすいように言い換えるとその時の気分】によって結果が変わる。危険というのは、最悪の場合は、真実を語った者に死を与えようとする意志をもたらしうるということ。
中立的ニュートラルな条件のもとでなされる論証の過程には、真実が言われることがあるにしてもパレーシアはない。なぜなら真実を語る者がいかなる危険も引き受けてないからだ。ただし、(またガリレイを取り上げ)真実を語る論証過程において(内的にであろうが外的にであろうが)突発的な出来事が構成され、語る主体に不確定な危険をもたらす時、その時にこそ、そこにパレーシアがあると言える。

②発話する者が当事者であること
行為遂行的言表を実行するにはステイタスが不可欠(「開会します」と言うだけで会議が〔実際に〕開かれるような人物の例で言うと、その人にはそれに必要な権限がなければならないし、また会議の議長でなければならない)。その際、それを言う人と言表そのもののあいだに、個人的な関係は必要ない。具体例を挙げると、「開会します」と言う議長は、その会議にうんざりしていようが【始まった後に】居眠りしようが関係ない。
逆に、パレーシアにおいては、そのような無関係さは不可能であるだけでなくパレーシアの成立条件である。パレーシアは発言内容がまさに真実であることが必要だし、また、語られる真実について、語る本人が実際にそれを考え、重視しており、本当に真実であると考えていることが必要。
このことはパレーシアが(常に明示的であるかとは限らないが)本来的に持つ公的パブリックな性格を示している。※
パレーシアにおける一種の闘いあるいは挑戦にほかならない場面に現れるのは、語る主体による自分自身との協約である。パレーシアにおける主体は「これが真実である」と言い、自分が本当にその真実を信じているとも言う。そのことによってその人は言表、また言表の内容を自分自身と結びつける。だから協約とはパレーシアがもたらすあらゆる結果についての危険リスクを引き受ける、ということ。

※ここは理解のために注釈が必要です。ただ、notoに注釈の機能がない(ある? あるいは単に私が機能を使いこなせていないだけかもしれません)ので「引用」の機能で代用します。私の読書ノートにおいては平の文章が引用であるため、このような機能の逆転現象が生じているとご理解ください。しかし、本文より小さな文字になるというこの機能は、引用よりも注釈として適していると思うのは私だけでしょうか。

 フーコーがここで「公的」という言葉を使うのは、カントの用法を念頭に置いています。1983年1月5日の講義(パレーシアに直結しないので飛ばした部分)ではカントの「公的/私的」という言葉が取り上げられていました。カント界隈では有名なことですが、カントが公的と書くとき、そのニュアンスは私たちが「私的(プライベート)」な事柄と考えていることがほぼそのまま該当します。そしてカントが私的と書くとき、私たちにとって「公的(パブリック)」な事柄に分類しているものが該当します。なぜそうなるのかは、話が逸れるので説明しませんが、単純に逆の意味なんだ、という知識だけでOKです。
 その上で、パレーシアの公的な性格が、自分自身との(私的な)協約であるという、ここまでのところはすんなり理解できるでしょう。ただし、フーコーがわざわざカントの「公的」という言葉を持ち出すのは、狙いがあってのことです。今回の記事の最後のパートでフーコーの考えるパレーシアの主要な形態が示されますが、それらに共通するのは「政治の領域における真なる言説」であることです。
 少しややこしいのですが、とても面白い部分でもあるので整理しますと……パレーシアが成立する必須要件の一つは私的な協約です(カントの用法)。そしてパレーシアのあり方は「政治の領域」で現れるといわれる(本来的に公的とはそういうこと)。ところが、今回つねにパレーシアと正反対なものとして対照されている行為遂行的言表(オースティンやサールの語用論)は、ハーバーマスが公共圏における言説の理論を展開する際に、中心的な役割を担ったものです。フーコーは、だから、ハーバーマス的な(図式的ですがマクロと表現してもいいだろう)公的=政治的な言説に対して、同じく政治的なものなんだけど(ミクロと表現してもいい)正反対な性格の言説のあり方を示している、ということになります。

③語る個人の自由/あるいは勇気
行為遂行的言表の場合、発話者はステイタスやコンテクスト上の資格を持っていなければいけない。
パレーシアの場合は、哲学者でも暴君の廷臣でも誰でも構わない。パレーシア的言表を特徴付けているのは、ステイタスや、状況をコード化し決定するようなあらゆる物事の範囲外にあって、パレーシアストがまさしく、語る個人としての自分自身の自由を活用する人である、という点である。パレーシアの核心に見出されるのは主体の社会的、制度的ステイタスではなく、その主体の勇気である。 ※この「勇気」と言う表現は『講義集成』13のタイトル「真理の勇気」に引き継がれます

パレーシアについての問いの三つの要素

哲学的視点

【哲学の伝統として】よく知られた問い――「真理がどの程度まで自由の行使を制限し、限定しあるいは束縛するのか」といった視点ではなく、まさに逆の問い――「真理への責務は同時に、どのようにあるいはいかに自由の行使、それも自由の危険な行使となるのか」になるだろう。パレーシアについての【哲学的】分析は、パレーシアがどのようにして、実際に自由の行使、それももっとも価値ある自由の行使となるのか、という視点でなされるべきだろう。

方法論的視点

パレーシアが生じる時を詳しく見てみると、[ディオニュシオスが]プラトンを殺そうとしたからパレーシアが生じたのではない。〔そうではなく、〕真実を語ることで、追放されるとか、殺されるとか、奴隷に売られる等々の危険をプラトンが受け入れた瞬間から、パレーシアが生じる。だから、パレーシアとは何かというと、主体が自分自身を言表行為と結びつけるもの。そして、言表行為がもたらす結果に結びつける、まさに当のものということになる。
言説の語用論の分析とは、言説の価値あるいは意味が発話者をとりまく状況によって変化する、その際のさまざまな要素や仕組みの分析である。
パレーシアにおいては、鏡のように逆の事象が起こっている。言表という出来事が主体のあり方に影響を及ぼし、また主体は、言表という出来事を生み出すことで、語る者としての自らのあり方を変容させ、確認し、あるいは少なくとも決定し明確化するという遡及作用フィードバックがある。したがって、パレーシアの分析は、言表行為という出来事それ自体がどのように発話者の存在に影響するかを示す、言説事象の分析ということになる。本当のことを語る者、語った者、また本当のことを語った者の中に自分を見出し、自分をそのような者と認める者として自分を構成するその仕方が重要になる。
言い換えると、パレーシアの分析とは、本当のことを述べるという行為において、語る主体が自分自身と取り交わす契約を明るみに出すような、本当の言説のドラマを分析することである。

政治的視点

今年度の講義でやりたいと思っていることはこれ。つまり、【上記の】(哲学的かつ方法論的な)視点をもとに、政治的言説と呼べそうなものについての歴史や系譜学を行うこと。例えば、真なる言説に関する政治的なドラマというものはあるのか。政治的言説のドラマがとるさまざまな形態や構造はどのようなものでありうるか、など。
今年度行いたいのは、つまり統治性をめぐる言説の歴史であり、そこでは、こうした真なる言説のドラマが導きの糸となるだろう。また、真なる言説のドラマがとる、主要な形態のうちのいくつかを標定することを試みたい。

政治の領域における真なる言説のドラマの主要な形象(4つ)

助言者の言説への移行

出発点は古代ギリシャ・ローマの政治の領域における真なる言説のドラマの形成〔=編成〕。公衆を前にした雄弁家を特徴付けるようなパレーシアのあり方かた、君主の傍らで発言し、なすべきことを述べるような助言者のドラマを特徴づける概念の移行がどのように生じたのか【を分析すること】。

大臣のドラマ

「大臣」という言葉の使い方は恣意的なもの――具体的には16世紀ごろ、統治の術がそれなりの規模と自律性を持つようになり、国家というものに応じてそれ固有の技術を決定するようになったころに政治の領域に出現した、真なる言説をめぐる新しいドラマの形象について。国家理性、あるいは国家の知という知のあり方に応じて発せられる、真なる言説【についての分析】。

「批判的」形象

政治的な領域で形成され、発達し、18世紀にはある種の地位を得、19世紀と20世紀を通じて存続する批判的な言説というもの、それは何なのか。

革命的なものの形象

ある社会のただ中で立ち上がり、私は本当のことを語る、そして私は革命にほかならぬ何ものかの名において本当のことを語っているのであり、その革命を私は遂行し、またわれわれは共に遂行するのだと語る人物とは、一体何なのか。

 今回は以上です。フーコーは(今年度やりたいことの全般的枠組みを述べたことについて、話を)進めすぎたと述べています。つまり、次回は「助言者の言説への移行」について……というように進んでいくわけではありません。その前半、都市国家運営(という政治)におけるパレーシアについて、エウリピデスの悲劇『イオン』に関する、長々とした読解が始められます。この読解は、本当に長々としていて、読む分には楽しみもあるのですが、読書ノートとしては、逐次追っていくことはしません。図式的になることを覚悟して、フーコー自身によるまとめと、強調部分を拾っていくことになるでしょう。

私的コメント

 だんだんややこしくなってきた、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。その感想が普通なので大丈夫です。コツというか……よくないアドバイスかもしれませんが、用語(馴染みのない漢字だったりカタカナのもの)は厳密に意味を理解しようと思って読まないことです。どうせ、表記も統一されていないんです。「言説」といってみたり「言表」といってみたり、対して違いません。それから、語用論(スピーチ・アクト)についての知識は、ウィキペディアで十分すぎるぐらいです。ぶっちゃけ、そういうのがあるんだな、程度の方が楽だと思います。あくまでパレーシアを特徴づけるために比べているだけですから。あと、前回含め、同じような内容をフーコーが何度も言い換えているのは、講義だからしょうがないです。
 読解において、最も込み入ったところについては「注釈」をはさみました。注釈ですから、読み飛ばしてもOKです。全体としてのポイントは「真実」という言葉に、例えば客観的正しさというニュアンスはほとんど無いということでしょうか。たしかに「本当のこと」であることは大事なんですが、フーコーが何度も強調するように、それを本当と思っていること、とか、本当のことを言うリスクを引き受けること、の方が大事なんだ、というフワッとしてますけど、そういう感覚をある程度つかめば、違和感が減っていくと思います。慣れ、の部分も多いし、人によるでしょうけれど。
 哲学的な観点で面白いなと思うのは、主体ありきではなくて、パレーシアとそのフィードバックで主体が形成されるというところですね。そこでは、自由や自律といった言葉は……伝統的な哲学用語と言葉は同じでも全く意味が違っています。厳密さや定義的なものではなく、(語用論と共通点でもある)コンテキスト依存的だったり、予測不可能性というかたちで、とても豊かで広がりのある主体のあり方が「開かれて」いますね。
 さいごに余談じみますが、私たちが政治と聞いてとりあえず思い浮かべるのは政治家ですけど……あの人たち(全員ではないと思います)はほんとにパレーシアがないですね。自分の言葉を自分に結びつけてないでしょ。どっちかというと、フーコーが正反対と特徴づける、「行為遂行的言表」の方が共通点、多いかもしれません。もちろん、このような民主制、そしてパレーシアの機能不全についても、読み進めていく中で後に言及されます。

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