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[読書ノート]20回目 2月8日の講義(第二時限)

講義集成13 1983-84年度 71頁~87頁

今回のまとめ

  • 君主−助言者の関係なら「倫理的差異化」をつくれる

  • 魂に対する実践としてのパレーシア

  • 哲学における4つのやり方(態度)が定義される

 パレーシアの問題化の第二の側面は、いわば問題化を補完するポジティヴな面。すなわち、「真なることを語ること」のために好都合な場所としての君主とその助言者との関係。

君主との関係にパレーシアの場所があるのは何故か

僭主のイメージ

 (君主制について考えてく上で)慎重になる必要がある。ギリシャ思想において僭主は恒常的にネガティブな価値づけがされている。僭主(のイメージ)とは、その専断的権力において真理を受け入れない者、受け入れることができない者。つまり、君主との関係が突然、政治構造の一形態として高い価値を与えられ、確実なものとして保証されて、パレーシアがそこで自らの権利を獲得して、好都合な諸効果を得るようになった……などと考えてはいけない。
 しかしながら、(これまでの講義で見てきたように)プラトンのペルシアの君主キュロスへの言及に代表されるように、君主との関係をパレーシアの場所としてはっきりと高く評価しているテクスト群がある。

倫理的差異化の可能性

 君主との関係がパレーシアの場所でありうるのは(民主制と逆の理由となる)――個人の魂としての首長のプシュケーが、それ自体、倫理的差異化の可能性を持つから。つまり、【君主を】道徳的形成および道徳的練り上げることで、倫理的差異化が導入され、価値づけられ、具体化され、諸効果を産出できるようになるということ。
 乱暴でおおざっぱな言い方をするなら――君主が一つの魂を持つからであり、その魂を説得したり教育したりすることが可能だからであり、真なる言説によって魂にエートスを教え込み、それによってその魂が真理に耳を傾けてその真理に従って自らを導きうるようにすることが可能だから、ということ。
 プラトンは(ディオニュシオスに対して)それに失敗したが、その失敗は(民主制の場合と違って)構造上の失敗ではない。君主に対するパレーシアは、常にリスクを伴うが、それ自体として不可能ではなく、常にそれを試みる価値がある。

助言者についての区別

 イソクラテスは、君主のための助言者の役割を次のように区別する。「企てられる個々の行動に」介入して忠告を与える助言者たちの役割と、君主の魂の教育者としての役割。つまり、政治的行動に関する具体的情勢に従った忠告と、君主が人間としておよび統治者としての生存全体にわたって維持すべき生活習慣エピテーデウマタを教え込むものとしての道徳的助言とをはっきり区別し、後者を自分の任務とした。

エートスと統治

 君主のエートスは、一方では、真なる言説に接近することの可能なもの、彼に向けられる真なる言説から出発して形成されるものであり、他方では、彼の(都市国家の)統治法の原則となり母型となるものであるということ。
 (民主制の場合と君主制の場合)両方のケースにおいて現れているのは、エートスの問題。民主制のケースにおいては、民主制がエートスに対して場を与えることができないというものだった。君主制のケースにおいて、エートスは「真なることを語ること」と「よく統治すること」とを結びつける絆、それらの連接地点であり、だからこそ、それによって君主とのあいだのパレーシアが可能となり、必要なるのだ。

権利から実践へ/ポリスからプシュケーへ

 君主制ないし専断的権力の価値の引き上げという変化を通じてパレーシアは、ただ単に、行使すべき特権、その行使が名誉ある市民の自由と一体をなす特権というものから、一人の主体による一つの実践というものに変わる。そしてこの実践において、パレーシアが差し向けられるこの相手、パレーシアがその諸効果を得るこの領域、それが、個人のプシュケーである。つまり、パレーシアの本質的な相関物が、ポリスからプシュケーへと移行するということ。
 そして(イソクラテスが特徴づけたように)パレーシアの実践は、個別的状況において役に立つような忠告を与えることを目標とはしなくなる。パレーシアの目標は、個人におけるある種の存在の仕方、ある種の振る舞い方、ある種の行動の仕方の形成をもたらすこと――すなわちエートスである。

4つの哲学的態度の定義

西欧哲学の根本的特徴である3つの極

 ①アレーテイア【真理】と「真なることを語ること」の極、②ポリテイアと統治の極、③エートポイエーシス(エートスの形成もしくは主体の形成)の極。言い換えると、①「真なることを語ること」の諸条件と諸形式、②ポリテイアの(すなわち権力の諸関係の組織化の)諸構造と諸規則、③個人が自らの行いの道徳的主体として構成されるためのエートスの形式の諸方式。
 ギリシャから我々に至るまでの哲学的言説全体は、これら3つの極の本質的な還元不可能性と、必然的で相互的なそれらの関係、それらのあいだの一方から他方への訴えの構造に支えられて存在してきたと私(フーコー)には思われる。

「真なることを語ること」の4つの方式

 ここで、前回【読書ノートとしては18回目】、ギリシャ文化に見いだされる「真なることを語ること」の4つの方式(預言・知恵・技術テクネー・パレーシア)を出発点にすることで4つの根本的な哲学的態度を完璧に定義することができる。そこでは、①アレーテイアに関する問題、②ポリテイアに関する問題、③エートスに関する問題を互いに結び合わせる4つのやり方が見いだされうる。

哲学における預言的態度

 これは、真理アレーテイアの産出、権力ポリテイアの行使、道徳エートスの形成が、ついに正確かつ決定的なやり方で一致するに至る瞬間および形式を、現在の限界を超えて約束し予言するような態度。アレーテイア、ポリテイア、エートスのあいだの約束された和解の言説を述べるものである。

哲学における知恵の態度

 これは、真理について事情はどうであるか、ポリテイアについて事情はどうであるか、エートスについて事情はどうであるかということを、根本的で唯一の言説、一つの同じタイプの言説のなかで同時に語ると自負する態度。真理、ポリテイア、エートスの創設的一体性を思考し、それを語ろうとする言説である。

哲学における技術者的態度ないし教育的態度

 これは、アレーテイア、ポリテイア、エートスが一致する地点を未来において約束したり【預言】、そうした地点を根本的一体性のうちに探し求めたりする【知恵】のではなく、逆に「真なることを語ること」の形式的諸条件(これが論理学)、権力の行使の最善の諸形態(これが政治的分析)、道徳的行いの諸原則(これが道徳)を、それらの還元不可能な種別性、それらの分離、それらの通訳不可能性において定義しようとするもの。アレーテイア、ポリテイア、エートスのあいだの異質性および分離に関する言説である。

哲学におけるパレーシア的態度

 執拗にそして常にやり直しながら、A. 真理の問題に関して、真理の政治的諸条件の問題と、真理に通路を開く倫理的差異化の問題とを提起し直そうと試みる態度。また、B. 権力の問題に関して、一方では権力の真理および知に対する、他方では権力の倫理的差異化に対する関係の問題を、絶え間なく常に提起し直そうとする態度。さらに、C. 道徳的主体に関して、その道徳的主体がそこで構成される真なる言説と、その主体がそこで形成される権力の諸関係とにかかわる問題を、絶えず提起し直そうとする態度。
 それは、真理、権力、エートスが互いに還元不可能であることを語る言説であると同時に、それらのあいだには必然的な関係があること、アレーテイア、ポリテイア、エートスを、それらのあいだの本質的で根本的な関係を抜きにしては思考できないことを語る言説である。

今回は以上です。次回は、倫理の領野におけるパレーシアの創設について、まずは『弁明』を取り上げながら検討されていきます。えー、何かの記事で書いた気がしますが、道徳と倫理というのは、単純に同じものと考えてください。モラルとエシカルは、文脈で使い分けられているだけです。

私的コメント

 いきなり内容に無関係なことで恐縮ですが、この「読書ノート」、なぜか10回目だけが突出して「ビュー」の数が多く、なおかつ「スキ」は極端に少ないんですよね。おそらくnotoさんが無関係な人にも表示してくれているのではないかと思うのですが、10回目だからといって内容の区切れ目ではないですからね……よく分かりません。なぜこんな事をいうのかというと、今回が20回目だからです。そして、たまたまですが、この回ではフーコーによる「哲学」――あるいは哲学のありうる形式(やり方・態度)が明確に示されています(つまり、一つの区切れ目の回ということです)。その内容については、私が言葉を変えて説明するより、この記事の該当部分を読み直していただく方が間違いなく、よいです。
 さて、記事の前半の方は、前回(19回目)とのセットでもあり、身も蓋もない言い方をすれば前年度で触れられている内容です。読解上の困難はないでしょう。問題は後半ですね。
 内容の解説ではなく、感想(したがって間違っているかもしれないですよ!)を述べますと……預言があり得る、もしくはあり得た、という方がいいのでしょうか。預言は未来に関わることで、もちろん宗教的なものではありません。それは革命、もしくは達成されるべき正しさについての言説で、確かに現代に存在しました。これからも存在しうるでしょうか。
 知恵。「創設的」というのは、新たに構成される――ようするにコンスティチューショナルというニュアンスでいいと思います。私の解釈としては、カントの哲学(の良い面)などがそれです。これも現代に(つまりカント以後もずっと)存在しました。もちろん、現役の哲学者による取り組みもあるものです。
 技術と教育。フーコーはいくつか例を挙げていますが、(18回目でも触れたように)広くは学問全般に関わることです。さらに言うと、学問史(科学史)やメタ哲学などもそうかもしれません。呼び名はどうあれ、学際的な――同時に大学という教育機関との関わりにおける哲学のやり方です。
 そしてパレーシア。18回目ではそのものとしては消え去ったといわれた、この哲学は、「真理・権力・エートス」に関わるものですが……ちょっと突き放したような書き方をすると、ようするにフーコー自身の哲学のやり方、研究の態度でしょう。「真理」とか「権力」とかはモロにそうです。そして、そこにエートス(個人のあり様、生き方)が加わった。こう言ってよければ、パレーシアをアリアドネの糸にして、最期のフォーカスポイントがエートスとなり、残り少ない講義が進められていくことになる、ということでしょう。その意味・意義を、丁寧に汲み取っていきたいと思います。

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