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本の紹介:『ダーウィンの呪い』(3)

 今回は『ダーウィンの呪い』(以下、本書)における著者の主張と思われるものを中心にまとめます。それは即ち、現代的意義(あるいは社会課題への提言)と言えるものです。さらに、最終回ですから、私の見解も(著者の主張を弁別しつつ)書いてみたいと思います。
 ちなみに、シリーズものですが、この記事だけ「ビジネスと哲学」ジャンルとしておきます。理由はもちろん、現代のビジネスに関わることが含まれているからですが、この記事で不足している(と思われるかもしれない)情報の多くは以前の記事で触れているので、そちらも合わせてご覧ください。

ストレスな言説

 本書の「はじめに」で著者は、生物進化に関係したことを聞くのがすげーストレスだと言っています。そして、それは実際は逆で、ストレスと感じる内容のメッセージ(言葉やキャンペーン)に、たいていダーウィン絡みの言葉が入っているのだと気づきます。

 例えば――(中略しつつ)「教育進化のための改革ビジョン」「進化する国立大学、大学間に競争的な環境を」「もっと進化を、数値指標の向上を」(企業サイトには)「製品や企業の生存闘争をダーウィンの進化論で」「適者生存は真理、滅びる企業は……」(ニュースなどでは)「ダーウィンの言うように変化に対応できない企業は淘汰」「進化論に従いビジネスでも適者生存が進むべき」――と脅迫のようなメッセージが並ぶ。
 まさに「呪い」である。

4-5頁

ということで、まずは本書のタイトルの回収でした。このような文脈から、「もちろん由来がわかったところで、呪いを解けるわけではもないだろう。(中略/だが言葉が生まれた歴史的背景を知ることで)そうした言葉の魔力の緩和には役立つだろう。」(6頁)と、本書の狙いが書かれています。
 私が哲学/哲学者の歴史的背景を紹介するのもおおよそ同じ狙いです。逆に言えば(これは私の意見ですが)、引用部分のような日常的な言説を、特に考えることなく使っている/聞いているうちは、常に呪いがかかっている状態だし、そもそも呪いに気づくこともないでしょう。一方で、著者のように(ストレスまでいかずとも)教育やビジネスの現場で飛び交う言説になにか違和感を感じている人にとって本書は役に立ってくれるはずです。

呪いは19世紀の世界観が生み出した

 本書では、呪いを3つに分けて考察が進みます。しかし敢えてその区別は紹介しません(少しでも分量を減らすために割愛します)。したがって、以下の引用は3つのうち「進化の呪い」に関するものではありますが、一括して「呪いの生まれ育ち」として見てみましょう。

その〈19世紀欧米社会の〉世界観は、恐らくはギリシャ時代に端を発し、キリスト教の終末論的概念を負の推進力として強化され、啓蒙時代の英国を覆っていた、進歩史観に由来するものだ。進歩のために、自助努力を重視し競争を許す思想は、プロテスタントの労働倫理が影響したものであろう。

24-25頁

推測の文章になっているのは、著者がいわゆる社会学などの専門家ではないための謙遜でしょう。ポイントは、引用文直後に著者が指摘するように「(呪いは)生物学の原理を社会に当てはめて生まれたものではない。初めから自然、生物、社会をあまねく支配し、進歩を善とする価値観として(ダーウィンの前から)存在していたもの」(25頁)だということです。さらにそれが、ダーウィン(というブランド)なり、科学的エビデンスなりで、べき論の言説だったり規範となっていったのだ、と続きます。
 おおよそ(私の)誤解ではないと思われる、著者の主張は、そういったべき論や規範――特にその内容的な窮屈さが(著者個人だけなく社会にとって)ストレスの元だというものでしょう。ようするに、19世紀のしかも(先進国とはいえ)極めて限定的な文化的価値観が、ずーっと現代の日常まで続いているのです。哲学に関して私なりに付け加えるなら――プラトン+アリストテレスに確かに端を発するものですし、キリスト教だけでなく、哲学も要所要所(中世哲学やまさに19世紀の哲学として)でその価値観を作り上げる側でした。ところが、その世界観が依って立ついわゆる科学的事実は、ほぼ覆されています。それなのに、価値観(ものの考え方)は変わってない。19世紀以降の科学の(それこそ)進歩と、哲学の歩みはいったいなんだったのでしょうか。
 人の価値観が変わるのには時間がかかる。それはその通りです。ところが、いくらなんでも遅すぎるでしょう。つまりこれは、遅いのではなく、変わっていないが正しいのです。仮に、その古臭い価値観が現代で人々に安息を与えているならいいですよ。でも、ストレスですよね。端的にウザいと思います。あと、私の意見なので風呂敷を広げることがゆるされるなら、現代で世界の分断を生んでいるものの一つはこの欧米由来価値観だと思いますよ。そういう意味では、ほんと、罪深いです。
 一方で、著者はこの呪いは、「本当はもっと恐ろしい悪魔を封印しておく護符のようなものだったのかもしれない。」(33頁)と書いています。ただし文脈的に〈19世紀当時において〉が文頭にある――裏を返せば、現代なら不要の護符とも読めます(後者は私の推測)。

個体から集団への拡張

 (ダーウィンの)本は変わって『人間の由来』では、自然選択が作用する単位が個体から集団に拡張されます。著者が引く、ダーウィンの記述は――

愛国心、忠誠心、従順さ、勇気、同情などの精神を高度に備え、常に互いに助け合い、共通の利益のため自己を犠牲にできるメンバーを多く含む部族は、ほかのほとんどの部族に対して勝利を収めるだろう。これは自然選択である。(後略)

41頁

この集団――ダーウィンでは「部族」、のちの優生学では「国民/人類」――への拡張……これがおそらくは著者の感じるストレス的言説の前提にあるものです。先の「規範」においてもそうでしたが、ようするに個人の在り様を超えて、導くもの/強いるものになったとき、それはストレスになります。何故か分かりますか? ここは(私の意見ですが)大事なポイントです。一点目。「愛国心、忠誠心……云々」言葉はどのようにでも刷新できます、例えば、アイデンティティ、エンゲージメント、働きがい、やりがい、仲間意識……云々」――それぞれ悪意のある言葉ではありませんが、それを持つことを多かれ少なかれ強いられているんじゃないでしょうか。二点目。テクストには僅かにしか表れておらず、それ故こちらの方が重要なんですが、集団に関する言説になった途端、ぶっちゃけその「云々」を持っていない人への排除の言説になりますよね。つまり、「……メンバーを多く含む……」というのは、できるだけ比率を多くしたい――場合によっては理想形は100%という意図を孕んでいます。この二点の組み合せがストレスなんです。そして、幸か不幸か、ストレスマッハではありません。それがストレスなのかどうかよく分からない、じわじわ蝕まれていくような、その種のストレスなのです。

目的への晒され

 ここは、ダーウィンが自然選択と適者生存の用途について妥協した(第二回参照)文脈です。引用文頭に〈適者生存という言葉を使うこと〉を補って――

これを通して排除とサバイバルによる改善、という単純化された考えが、社会的な問題へと波及し、時代の進歩史観に合流する道が開けたのである。成功、貧富、教育、さらには道徳など、あらゆる人間的要素が、むき出しの闘争と改善、そして進歩という目的に晒されることになった。

51頁

先に「強いられる」と書いたのは、結局ここでいう目的への晒されです。この部分は、次の優生学へのつなぎでもあり、内容的に重複があるので触れるだけにします。
 ただし、少なくとも私たちにとって重要な歴史的経緯だけは確認しておきましょう。日本は二次大戦後、憲法はじめほぼすべてのものを刷新する必要がありましたが、(経済を含め)法制度と教育制度を整備する際、(著者は「良し悪しは別の話として」と書いています)ダーウィンの呪いが「最初の時点でもうしっかり取り憑いて」(63頁)いました。お手本が欧米なのは当然ですが、時代的にがっつり「呪い」を組み込んでしまったということです。こういう(制度的な)ものを、いち個人が認識するのは非常に難しい。だって依って立つ基盤ですからね。まぁその、そういうものを認識するのに哲学的思考は有効なんですが……さっき書いたように「哲学的思考」とやらが19世紀で止まってたらどのみち無理ですしね。

個人の規範に使うことの拒否

 一次大戦から復員したイギリスの生物学研究者の言葉が紹介されます。この辺り、第二回の続きと思ってください。著者の主張は、後でまとめます。

「戦争が始まり、今になって私は、自分が騙されていた、と告白しなければならない。(中略)動物に対するダーウィン的な効率性の基準は、社会の一員としての個人の基準とはならない。またダーウィン的な進化の科学は、社会の科学ではない。(中略)訓練と感情の制御により、私たちはみな、行動、意識、動機の面で兵士になった。私たちは、制服が意味するものをすべて受け入れ、別人のようになった。(中略)最適化された動物、というダーウィン的概念を、社会の一員たる個人の規範に使うことを、私は拒否する。」

221-2頁

この文章(優生学の理念を根底から否定する記事)が優生学の機関誌に掲載されたという事実は、優生学の岐路をよく表しています。実際、以後、イギリスでは優生学が下火になっていきます。
 ただし、注意しないといけないのは、一次大戦後という時期から分かるように(二次大戦でのナチス)ドイツに反対するためという時代特有の理由があっての下火です。「社会の一員たる個人」(という、少なくとも言葉だけなら現代でも十分有意義だと私は思う)概念が広く受け入れられたためではないのです。だからこそ本書の第九章は「やさしい科学」(内容としては一次大戦後の社会福祉といての優生学)なのです。

ヒトラーのバイブル

 ヒトラーのバイブルって、ニーチェ(たぶん『力への意志』)という話がありますね。あれは嘘です(ヒトラーの部屋にはあったそうですがろくに読んだ形跡がなかった)。
 アメリカの優生学運動を推進した、法律家、動物学者、自然保護活動家のマディソン・グラントが書いた『The Passing of the Great Rece』には「自然の法則は、不適格者を抹殺するように求めている。人間の命は、それが社会や民族に役立つ場合にのみ価値がある」という記載があります。表紙にはルーズベルト大統領の推薦文が飾られているこの本を読んだ若き日のヒトラーは感激しグラントに感謝の手紙を送るとともに、「私のバイブルだ」と言ったそうです。
 ナチスの蛮行は例に事欠きませんが、ガス室ってのがありますね。あれって、アメリカの安楽死がモデルなんです。例えばノーベル医学賞も受賞している学者の「適切なガスを供給する小さな安楽死施設で人道的かつ経済的に処分する」という提案だったり、精神医学者による「自発的で積極的安楽死の合法化」を求める活動だったりがあって、それをお手本にナチスは実行した。お手本通り、最初は先天的障碍を持つ子供の安楽死プログラムでしたが、エスカレートしてホロコーストに、という流れでした。
 単純化して整理すると、優生学の生まれはイギリス。そのイギリスで下火になっても、(やさしい科学として)若干の修正されつつ、アメリカで育ち実行され(第二回参照)、ドイツで極限までいったといったところでしょう。

ソフトな優生学/ステルス化する優生学

 「やさしい」と言葉が似ていますが、ここはテクストに忠実にいきます。ドイツでのエスカレーションを目の当たりにしても欧米諸国から優生学が消えることはありませんでした。いや、実際には優生学という言葉は避けられるようになったのですが、言葉を変えても中身は一緒です。人種差別はダメ(優劣の基準として人種を採用しない)というのが付け加わったり、社会的平等がゴールとして掲げられただけで「現代の文明環境では、原始時代に比べ自然選択が起こりにくいため、何らかの自発的な選択の誘導が必要である」(258頁)というむしろ芯の部分は維持されます。
 遺伝学者のドブジャンスキーを取り上げて……

人種差別に反対し、平等を唱えたドブジャンスキーだが、その目的は人間集団の育種と優生学であった。多様性、自由、平等、人権――ドブジャンスキーは、新しく到来した時代の社会を支配する価値観に、自身の進化仮説を重ね合わせて、優生学の推進力に利用したのかもしれない。

266頁

「社会を支配する価値観(多様性、自由、平等、人権)」というのは、現在でも変わってませんよね。ドブジャンスキーの言う多様性というのは、実質的に遺伝的能力主義ですが、それが具体化された社会とは、「音楽家、芸術家、事業家、政治家、スポーツ選手といったニッチを、それぞれ先天的に最適化されたエリートが占めるカースト社会」(266頁)です。
 これは著者の主張ではありませんが、スポーツに関しては日本だろうがアメリカだろうが、いわゆる優生学的価値判断が顕著ですよね。しかもそこにルッキズム(見た目の良さ)が加わることがしばしばある。その特性はマスメディアが介入していることが大きな原因と信じたいところですが……どうなんでしょう。そしておそらく音楽家含め、芸術家も同じだと思います。そういう尺度のグループ(業界)があってもいいですが、そこに所属する/あるいはプロを目指すというのは、ようするに優生学を目指すのと同じです。これは私の信念ではなくて、概念的に/構造的に(どう考えたって残念ながら)同じなんであって、違うと思う人は是非論破してください。
 ちなみに、著者は少し場所を変えてオリンピックはまさに優生学から生まれたことに詳しく言及しています(「平和の祭典と優生学」「崇高な理念とおぞましい差別」277-286頁)。

右も左も関係ない

 ナチスの印象が強いので優生学は右(ナショナリズム)と結び付けられて捉えられがちですが、著者は否定します。少し長いですがお付き合いを……

優生学運動を推進していた人々の大半は、自分たちの社会の理想や表現の自由、民主的プロセスへの参加という意識を強く持ち、リベラルで進歩的で、科学への関心が高く、道徳意識の強い人々である。優生学の拡張された功利主義――最大期間にわたる幸福量の最大化は、未来世代に対して現世代は責任を負うという意識とも重なっている。こうした意識を持つ人々は、現代なら言論の自由を重視し、環境問題や差別の撤廃への関心が強い層に該当するだろう。恐らくダーウィンという言葉が気になるような人々だ。つまり本書の著者や、恐らく本書の読者層のかなりの部分にも該当する。

272頁

はい、節題(の左側の例)を示すことと、最後の一文のための引用でした。だんだん著者の主張がテクストに表れてきます。

理由が何であれ、これだけははっきりしている。自由と正義に反する非人道的かつ差別的、強権的な制度は、強権国家でなくても、自由と平等を重んじる人々の手で、正義の名のもとに、民主的に実現しうる

273頁

この「はっきりしている」ことが非常に重要です。著者は一つ前の引用で自分自身も含めていますが、我々読者もしっかりと覚えておくべきことでしょう。

優生学の誤り

 著者の考える優生学の間違っていた点です。①倫理上の問題。行きすぎた功利主義が人権と自由を奪う点。「これは(前回の最後で取り上げた)ジョサイア4世の批判に集約されている」(275頁)。
 ②科学上の誤り。ここは、私の言葉で短く整理しますが、大きく二つに分かれます。一方に「動機づけられた推論」と著者が書くもの――つまり結論ありきで科学を曲げたこと。もう一方に(現代でも解明できていないぐらい)複雑な人間の性質を単純化した理論で定量化したこと。
 ③著者が「最も大きな問題」というもの。「人間集団の進化的改良という目的自体が不適切なのである」(275頁)。

集団が目指す方向(善)とずれた生得的性質は差別され、不要とされ、有害とされ、学習による向上と修正の努力は否定される。(中略)人間が持つ性質の何が正常で、何が優れ、何が異常で何が劣るかは、価値観の問題でしかないにもかかわらず、である。

275-6頁

③が最も大きな問題といわれるのはその表現の通り相対的なものです、つまり「採用する理論が科学的に支持できるものかどうか、科学か疑似科学かは、目的が孕む危険の深刻さに比べれば大きな問題ではない。」(277頁)
 そして、章を改め、「目的の問題」は取り上げ直されます。著者は、(最近の遺伝子操作技術を念頭に)集団の改良と個人の改良は理論上は別でも結果(=実質的に)はほとんど同じとした上で、仮に遺伝子改良(強化)を行うなら、「一世代限りの可逆的な方法で進められたほうがよいと考える。」(301頁)としています。

著書の結論

 話を戻して、科学との付き合い方について著者の主張は明確です。「やさしくて役立つ科学、わかりやすくて役立つ科学を装う説明は危険である」(306頁)。「ダーウィンがそう言っている」というのはそういう説得力を持つマジックワードのさいたるもの、と書いています。
 上記が、いわゆる注意喚起だとすれば、次の点は、一つの結論です。進化学が見つけた「事実」(競争による弱者の振り落とし、あるいは協力や利他行為による結果有利)というのは、進化の「結果」であって、その事実から直接、道徳律といった「べき論」は導けない(導いてはいけない)。――ここで優生学の誤り③が再び参照されるのですが、それが誤りであるのは結局、「である」(事実)と「べき」のギャップを飛び越えてしまった点にあると結論付けられます。

人類として普遍的な善悪はあるし、自明な善意も悪意もあるだろうと私は信じる。だが善であるためには、悪でないことを祈りつつ、一つずつ善意のレンガを置いてみるしかない。(中略)大切なのはむしろ、(中略)もし置いたレンガの場所が誤りだったなら、その失敗を修正できることではないか。

318頁

私的コメント

科学的側面

 科学について……あくまで哲学から見たコメントになりますが、著者はポパー的楽観のポジションですね。理屈は通っていて、なにかやるにしろ修正可能な範囲で止めておく(可逆性)というのはその通りでしょう。ただ、科学という営みが失敗を修正することの構造的な難しさはもう少し考慮されてもいいと思います。

政治的側面

 この面はあくまで科学的側面からの結論にとどまっていますが、それ(著者は科学者)故に、「である」「べき」の峻別というのはその通りです。著者は、それはもともと(哲学者の)ヒュームの主張だ、と哲学を持ち上げてくれていますが、まぁ、逆に言えばこの点について、それ以上に哲学が寄与することってないかなとも思います。

ビジネスの側面

 (私/記事としての)問題はこれです。テクストとしては、(一見)「はじめに」で軽く示唆している程度に留まっているように見えます。つまり、テクストの行間を読まなければいけないのですが、その場合、多分に私見が入ります。もっとも、ここは私的コメントなので、よしとしましょう。
 まず、人の集団として、民族や国民は扱われていましたが、(官を含め)企業という組織はほぼ扱われていません。ヒントはあります。「はじめに」で言及される著者がストレスを感じる言説には企業絡みのものがありました。つまり著者は、企業という組織の内的価値観に優生学的なものを感じていると思います。「ソフトな優生学/ステルス化する優生学」でまとめた箇所をもう一度見てほしいのですが、現在の企業はこの領域にとどまっているだけでなく、よりステルスを強くしてると言えないでしょうか。
 短い言葉にすると、ぶっちゃけ企業は能力主義で、それでもって(差別でなくても)除去(/排除)の理論が働いていますよね。それに対して、一旦(仮に)私の意見を、「優生学は良くないよね」だとします。想定される反論は……(生まれを選べない)民族や国と違って企業は自分で選択して参加するんだから別にいいだろ(そういう価値観が嫌なら別に行け)というものがあります。なるほど、と思いますか? 私はそう思いません。優生学的な価値観「じゃない」企業(働き口)ってどんだけあるの、絶対数が足りないか給料が足りないかのどっちかだよね、と思います。言い換えると、想定反論の理屈は、単なる理屈で現実的ではないと思います。
 次に、「個人の規範に使うことの拒否」の箇所の戦争から復員した学者(本書でも書かれていないので名称不明ですが)の引用部分、軍を企業に置き換えて読むことができると思います。ある偉大な経営学者は「経営を戦争用語(仮想敵、友軍、戦略……等々)で語り始めたらその企業は終わりだ」と言いました。そのことをとある管理職者に伝えたら「それは間違っている。実際のビジネスは戦争だ」と返されたのは私の個人的な経験です。まぁ、経営学者を擁護するなら、「もちろんそれは事実なんだけど、だからこそ言説を変えるという方法で(例えば)ステークホルダーとの付き合い方も変わってくるんだよ」というハウツーのレベルの話だよってことになりますが、私もビジネスが実質的に戦争であることは知っています。だからこそ、実際の戦争から帰ってきた人の言葉――「社会の一員としての個人」という言葉には重みがあると思います。つまり、企業の一員である前に個人は社会の一員。だからこそ、優生学を規範とすることを「拒否する」。自由意志で参画しているとかいないとか、関係ないんですよ。
 いやむしろ強調しないといけないかもしれません――「理想(会社のミッションやビジョン)」「自発的選択」「改善」こういったビジネスの現場でポジティブな意味合いで使われる言葉のほとんどは、優生学と同じ言説だと。つまり、自由意志を理由に……例えば、基本的人権が毀損されている。
 実際のビジネスの現場って、建前無しに言って、人権、尊重されていませんよね。それは、ハラスメントがどうとかコンプライアンスがどうとかの話ではないです。いやそれも含めて生々しい話として現実なんですが――あえて(古い本から)抽象的な表現を引くなら……

「労働人間」は資本主義経済体制の下で「搾取される」から不自由だという観点から不自由を言うのではない。経済的搾取の有無にかかわらず、形式的自由の有無にかかわらず、万人の活動がことごとく労働化すること自体が不自由であり、奴隷的である。

今村仁司『仕事』弘文堂、1988年、190頁

営利企業で、功利主義が拡張(それが従業員の幸福の増大であっても)されるなら、当然、自由と人権は尊重されません。これは「優生学の誤り」の①です。そして残念なことに②の一方は昨今の企業不祥事といった形で表面化し、もう一方はみんな大好き定量化です。そういうわけで、著者が強調する③「人間集団の進化的改良という目的自体が不適切なのである」というのは、営利企業にも当てはまると思います(これが私の「仮」でない結論です)。

さいごに

 分量が多くなってしまってすいません。でも、行間にあるビジネスへの示唆を浮かび上がらせるのには迂回が必要でした。この記事では、企業活動と戦争を並べましたが、(過去の記事でもちょっと触れたかもしれません)世の経営者や管理職の方って、スポーツ(チーム)と並べるの、好きですよね。スポーツについては上記で触れた通りです。そういうのが好まれるというのは、結局ビジネスは優生学の理屈で回っていることの証左なんだろうなぁと、ぐったりした気持ちで思うところです。
 一方で、「社会の一員としての個人」に匹敵する在り様として「社会の一員としての企業」――つまり、優生学的排除の理論の拒否というのはあり得ますし、そのような在り様で運営されている営利企業も実際あるという事実は「希望」になり得ます。それは心理的安全性(最良の生産性)などといったものの、まさに逆側のものですが、生産性が低いわけではありません。「最良の」という排除の理論の逆――ぴったりの言葉を見つけるのが難しいですが(宗教的な意味合いの無い)寛容の理論、あるいは包摂の理論、もしくは協同アソシエーションの理論などでしょうか……自信がないのは、例えば最後のなんてマルクス的ですからね。
 ただ、言いたいことはお伝えできていると思います。つまりは、著者の言う、ストレスのない在り様の組織は、呪われていない/呪いを調伏していると言えるだろうということです。

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