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SDGsはバズワード?

「そんなことはない」と思われるかもしれません。実際に企業のwebサイトでは投資や採用のページで、SDGsについて実業と紐付けていることは、好印象の材料になっています。

一方で、メディアで耳にすることが減ったというのは、ニュース記事の通りだと思います。実は過去に遡れば逆に、「なぜ急にSDGsが取り上げられることが増えたのか」というニュース記事があったりします。
今回はニュース記事とは少し違った角度から、ヨーロッパの理念主義について考えてみたいと思います。

偉大なる理念と有言不実行

SDGsという言葉の以前に、CSR(企業の社会的責任)というものが概念化され、今でも制度として残っています。このCSRはヨーロッパ発の概念で、日本企業や日本政府との間を取り持ったロビイストが、著書の中で「ヨーロッパの理念主義とは有言不実行であることを前提に付き合わないといけない」と書いていました。実際に国際的な現場を経験してのこの言葉には重みがあると思います。
CSRという理念が(部分的だったとしても)制度になることは、実効性を持たせるための有効な手段です。もちろん、時間や状況変化に伴って形骸化していくことは避けられませんが、例えばSDGsのような、より時代に即した新たな理念に引き継がれればいいわけです。こちらは、「実行」のための努力のプロセスですね。
一方で、「不実行」とはどういうことかというと、国あるいは地域にとって、政治的なり経済的にデメリットが表面化してきたら取り組みをやめるということです。形としては、理念として掲げ、かつ(先進国を中心に)周りを巻き込んでおいて、自分はやらない、となります。
感想としては、ひっでえなぁ、と思うわけですが、こういった理念主義とはどう付き合えばいいのでしょうか。

理念との付き合い方

まず箇条書きにします。

  1. その理念が大切かどうか(中身の吟味)

  2. 実行できるかどうか(現実的かどうか)

  3. 誰が何の目的で言ってるのか(系譜学)

  4. 現状での政治的・経済的利権が働いているか/いないか

  5. どのような権力が働いているか

1番は、ほぼ無視していいです。だって、大事に決まっていますもん。
2番は、真面目な国・企業なら考えることです。
3番は、ニーチェの系譜学的見方で把握することです。

4番は、一部冒頭取り上げたニュース記事の内容も含まれますね。気候変動や戦争とかでそれどころじゃなくなったよね、というのは表面的な話で、実質的には宣伝のための巨額のお金が動いていた。それが動かなくなったらメディア露出が減る、という話です。
さらに深く踏み込むなら、いわゆる文化人類学、行動学的なアプローチ――フィールドワークとなります。ロビイストはまさにフィールドにいたからこそ、見えるものがあったわけですね。
5番は、哲学的・政治的なアプローチです。例えば、そこで前提となっている主体(国家・企業・個人)像はどんなものか。その主体を生産する諸システムが現実にどのように稼働しているか。そのプロセスで排除されている在り方は何か……といったところです。
これらのうち、3〜5番は、理念との付き合い方に限らず一般的に情報リテラシーの要素であると思います。

ヨーロッパと日本の違いの理由

次に、角度を変えて、ヨーロッパが理念主義である理由を考えてみましょう。ここは完全に私の個人的な意見と思ってください。つまり、推測とアンビバレントな結論を含みます。

デーモシオスとコイノス

違いの理由は一言で言えば、公共圏があるかないかです。
公共圏について、ハーバーマスやアーレントのように述べるつもりはありません。いつものようにラフに見ていくんですが、例えば、日本はデモってほぼ無いですよね。もちろんありますけど穏やかなものです。ヨーロッパやアメリカのデモは激しいし、まず頻度が違います。そのデモが行われている場が公共(パブリック)の場と思ってください。つまり、政府の官僚や議会の場ではなく、かといって人たちが普段の生活を行っている生活世界(この言葉は晩年のフッサールの関心事でした)でもありません。
ざっくりいえば、公共圏と生活世界が一部重なりながらあるわけですが、これは、古代ギリシャのデーモシオス(市民の政治の場)とコイノス(市民権を持っていない人を含む生活世界の場)の分割が由来でしょう。
日本は公共圏が育ってないということは、よく言われるところです。つまり、国(行政)と生活世界が直接隣接している。そう思って、選挙の演説を聞いてみると、その言説の大部分が「生活世界(の困窮や改善)について」であり、公共の事柄は主張されることがほとんどない、ような気がします。

理念主義と公共圏の関係

公共圏で主張されるのは「個人の」ではない利益や正義についてです。多くの人から共感を得るために、(いわば手段として)理念が必要です。これは自律に関わることなんです。だから本来的には(カントのように)個人は自律の主体ではないんですね。
公共圏があることで得られているものは、(ここは個人個人の)政治的関心です。失っているものは、「有限実行」です。と、言い切ってみましたが、こう考えるとなんとなく話が繋がると思いませんか。

有言不実行の闇

逆に言えば、日本に公共圏がないことで失っているのは明らかに個人の政治的関心なんですけど、得ているものは、もぅしかすると有言実行かもしれません。
少なくとも、偉大な理念による壮大な有言不実行はないとは思います。有言不実行の闇は、ぶっちゃけ最初から実現、実行する気のないこと。およびその状態で国際的に国や企業を巻き込むこと。それによって、無駄や非効率が生まれますし、(理念らしい特徴とも思いますが)科学的なエビデンスの軽視/都合の良いところだけつまみ食いすること。さらには、都合の良いように科学を含めた諸制度をつくることにあります。

さいごに

アリストテレスは「中庸」であることを大事にした、と言われますし、翻訳でもそうなっていますが、あれは「間」程度の意味です。古代ギリシャを起源とするヨーロッパの理念主義は、極端であることが特徴です。極端なのはいい面もありますよ。現実の延長線上では解決できない目標を見据えることができますから。それは中庸では持ち得ない、理念主義の光の面です。
技術の進歩にブレーキをかけてでも個人情報の保護などを守るという判断ができることは、まさに理念であろうと思います。

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