見出し画像

[読書ノート]9回目 2月16日の講義(第一時限)

講義集成12 1982-83年度 278頁~284頁

今回のまとめ

  • 今回は難解(抽象度が高い)

  • 中心は依然として「ロゴスにしてエルゴン」

  • 一万年と二千年前から、永続的な哲学における現実の原理

『アルキビアデス』

 政治との関係における哲学の行動エルゴンという問題を標定するために、第五書簡および第七書簡と比較するかたちで、(一般的に)青年期のテクストとされる『アルキビアデス』をとりあげる。

プラトン哲学の中にある裂け目

 アルキビアデスは(アテナイという)国家のうちで最高の市民である人々に属している。しかし、ソクラテスが彼の目立っている点として指摘するのは(唯一の)最高位の人間となりたい若者だということ。ここで問われるのは、民主制におけるパレーシアの闘争的なゲームにおいて、すべての他者よりも優位に立つ人間が、一人だけいることが果たして可能であり、合法的であり、望ましいことなのか、ということ。
 この「ソクラテス−アルキビアデス」と「プラトン−ディオニュシオス」との関係性には、類似性とともに重大な一連の相違がある。

第一の相違:好機の捉え方

 ソクラテスがアルキビアデスに介入する理由は気があるから。アルキビアデス自身が国家の前面に身を置いて、最高の地位に昇り、ただ自分のみで権力を行使したいと思っているのは、好機カイロスである。私(ソクラテス)がそのカイロスを捉えるのは、アルキビアデスへの恋ゆえだ。つまり、ソクラテスはエロスの領域に属するような関係によって好機を捉えた。
 他方、プラトンが好機を捉えたのは、一種の内的な義務(哲学者はロゴスであるだけでなくエルゴンでもあらなければならない)によるもの。この違いはささいな転位〔変化〕ではない。

※念のため……実際のソクラテスとプラトンが比べられているのではありません。ソクラテスはあくまで、プラトン哲学(著作)の登場人物です。

第二の相違:哲学にとって現実とはなにか

 プラトンがロゴスであるよりもむしろ責務それ自体(エルゴン)に触れようとするとき、提起する問題は、見慣れたものであると同時にあまり知られていないもの。その問題とは、哲学における「現実とはなにか」というもの。プラトンがその問いを提示する仕方そのものが、彼にとって哲学における「現実」はロゴスではないということをよく表している。
 この問いをはっきりさせておく必要がある。私(フーコー)が思うに、こうした哲学における現実[についての]問いは、①哲学にとって「現実」とは何かと問うことではない。②哲学がどのような現実に関係するか、また立ち向かわなければならないかを問うことではない
 哲学における現実について問うことは、本当のことを語るという意志、本当のことを語るという活動、そうした真実の語りという行為がまさにその現実において何であるかを自らに問うことである。そうした特異的で独特な行為が哲学と呼ばれるものである。
 このこと(哲学とは何かというもの)は非常に儚い仕方で現れ、しかしそれでも決定的なものとして現れてくるもの。その問いは、③哲学が本当のことを語っているか嘘のことを語っているかを教えてくれるような現実とは何か、といった問いではない。そうではなく、ある哲学的な真実の語りが単に空虚な言説ではないということを知らしめ、またそれが本当のことを語っているのか嘘のことを語っているのかということを知らしめるような、哲学的な真実の語りにおける現実とは一体何か、という、問いである。※

フーコーが(私の整理で)①〜③で「でわない」と表現しているものと、この最後の〈問い〉の何が違うんだというのは、ぶっちゃけ分かりにくいと思います。ただ、今後に実例が挙げられるのですが、ざっくりいえば弁論術レトリツクと哲学の違いにおおよそ該当します。「見慣れたものであると同時にあまり知られていない」といわれるのは、そういうことです。ただし読書ノートでは、その弁論術との比較については、本格的にテーマになる回で一括して扱います。講義の中では、ちょいちょい弁論術との違いについて触れられているんだということはお知らせしておきます。
このように、簡略化している一方で(特に今回は)フーコーが強調して示そうとしている語り――主語と述語がそれぞれ長い文章には手を加えません。それは、私の解釈による単純化を避けるためです。ただし、読解の補助として、若干のボールドを介入させています。

 その問いの答えは(前回の)「哲学者は単にロゴスであることを欲するだけではなく、エルゴンに関わることをも欲している」という文章で、すでに出ている――あるいは粗描されている。その答えをこれから展開していくが、まずは全く単純なかたちで現れる。
 哲学的な真実の語りが現実的なものとして現れるための試練であり、またその経路である「現実」とは、その哲学的な真実の語りが、権力を行使する者に対して語りかけ、語りかけることができ、語りかける勇気を持っているということである。
 ここに誤解があってはいけない。このプラトンのテクストにおいて、ある種の哲学の機能が明確化されていて、その機能とは政治について本当のことを語ることや、法について、また政体について本当のことを語ること、また下されるべき決定について有用かつ有効な良き助言を与えるようなことである、というようなことでは全くない。それどころか逆に、プラトンは、哲学者が法を提案することができるということを遠ざけて、あるいは少なくとも、それをある特異的な、まったく中心的ではない場所に配置していることがこのテクストから読み取れる。
 私(フーコー)が思うに、プラトンにとっての哲学がそれ自身の現実を明らかにするのは、哲学が政治の領域に導入される瞬間からであり、その時哲学がとるかたちは、法を与えること、君主に助言すること、民衆を説得すること、等々の多様なものでありうるのだ。
 (そのような)哲学にとっての試練とは、それこそ哲学にほかならぬ「現実」にとっての試練とは、それが有する効果ではなく、哲学が自分に固有の差異において政治の領域に導入させ、政治に対して自分に固有の作用を持っているか、という点にある。

哲学と現実について、一般論と別様な徴づけ

 哲学が本当のことを語り得るということ、とりわけ学問に関して本当のことを語り得るということによって哲学の現実は支えられている、と考えてきた人たちが長らくおり、また今日でもなおいる。しかし、私(フーコー)が思うに、哲学における現実、また哲学的な真実の語りにおける現実とは何でありうるか、そして、その真実の語りが本当のことを語っているのか嘘を語っているのか、ということを徴づけ、決定する全く別のやり方がある。そしてその現実が徴づけられるのは、哲学は本当のことを語り、権力に対して真実の語りを実践する活動である、という点においてである。少なくとも2500年前から、それは間違いなく、哲学における現実の永続的な原理のひとつであったと思われる。

今回は以上です。難しい分、短くします。次回以降は「政治のゲームの中で行使される真実の語りを通じて表明されるような、哲学における現実についての一考察」を、要素別に分かりやすく分析していくことになります。
私からのコメントも簡単に一つだけ。最後の「哲学は……権力に対して……実践する活動である」というのは、反権力という意味だけではありません。権力に寄り添う助言者でもありうるし、もちろん(その時はプラトンとは別の人物にスポットが当たりますが)反権力でもありうるのです。

もしサポート頂けましたら、notoのクリエイターの方に還元します