初任校での出会い~今の自分があるのはこの出会いがあったから~
※ こちらの記事は、ご家族のご了承を得て公開しています。
●はじめに
私は大学卒業後,地元ではなく他県で教員になりました。
一緒に赴任してきた先生の中に 飯田信弘さん がいました。
飯田さんとの出会いがきっかけで、
私は仮説実験授業やたのしい授業を知ることができました。
私にとっては、本当に「恩師」です。
そんな飯田さんとの出会いやエピソードを一部紹介します。
●LINEにて
2023年3月某日,8時過ぎに家に帰ってきた私に,LINEが入りました。
LINEは研究会仲間のMさん。内容を読んで…絶句しました。
すぐにMさんに電話しました。
飯田さんが亡くなった?体調を崩されていたの?私聞いたことない…。
信じられない気持ちと,もう会えない気持ち,
言葉にできない気持ちが入り混じって
電話越しでわんわん泣いてしまいました。
●飯田さんとの出会い
私は大学卒業後,地元ではなく他県で教員になりました。
一緒に赴任してきた先生の中に,飯田信弘さん がいました。
私は3年生担任。飯田さんは1年生でした。
4月,子ども達が来る前に先生たちは
みんな事務仕事(教室掲示や当番表や名簿作成)をしていて,
私も見よう見まねでそれをやっていました。
しかし本当は何をしていいのかわからず,でした。
そんな状態が続く中,4月の春休みが終わろうとしていました。
始業式前日,初めての子ども達との出会いに不安だらけ。
どうしようどうしよう。
目の前の子ども達に何したらいいの?
となっている時,ちょうど階段で飯田さんと出会いました。
その時飯田さんから
「中村さん,子どもとの出会い楽しみだね。出会いの授業とか考えた?」と聞かれたのです。
出会いの授業って何!? その言葉に愕然。
それまでほとんど話したことのない飯田さんに向かって
「私,何をしていいのかわからないんです…」と
わんわん泣いてしまいました。
その様子を見た飯田さんは「ボクの教室に来て!」と
教室に連れて行ってくれて,おもちゃやものづくり,いろんなものを
見せてくれました。
こんな先生もいるんだ!
とっても楽しそうな教室…でも変な先生だな というのが第一印象 笑。
私にとってそれが,飯田さんとの本当の出会いだったと思います。
● 学級通信あげるよ
その後飯田さんは,「ボクの学級通信あげるよ」といって,
毎回机の上に学級通信を置いてくれていました。
学級通信の題名は「ちいさくてもわたし」。
A5判で2つ折り。毎回もらって読んでいました。
初任の頃は,テストやドリルもどう進めていいかわからず,
職員室の机は常にいろんなものが山積み。
そんな私の机に毎回そっと学級通信を置いてくれていました。
飯田さんは,私以外の学校の若い先生たちに通信を渡していたそうです。
そして,
「読んでも読まなくてもどちらでもいいよ」というスタンスでした。
誰にも押し付けることはしませんでした。
だんだん飯田さんのやっていることに興味を持ち始めた私は,
放課後や空き時間に飯田さんの教室によく行くようになりました。
そこではたくさん話を聞いてもらったり,授業プランを教えてもらったりものづくりを紹介してもらったり…。
そして,いろいろ話していくうちに
「僕は仮説実験授業をやっているんだよ」と教えてもらいました。
仮説実験授業は,大学3年の講義で教えてもらったことがある名前でした。
その時は,
「へー!講義で教えてもらった授業をやっている人がいるんだ!」と思いました。
そして,自分もやってみたい と思い,初任者研修最後の授業の理科で《ふしぎな石 じしゃく》をやってみました。
(その時,指導案作成時から,飯田さんに相談して作っていました)
これが私の仮説実験授業デビューでした。
● お父さんみたいな存在
職場でもたくさん飯田さんと話していましたが,
飯田さんが主催しているサークルにも毎月参加するようになりました。
サークルに通うようになった私に
「若い人たちが増えたから若手サークルを作ってみたら」
というアドバイスをしてくれたので,
実際に若手サークルを作ることもありました。
また,「いろんなサークルに行くといいよ。刺激受けるから」と言ってくれて,別のサークルにもちょこちょこ行くようになりました。
そして,仮説実験授業研究会の会員にもなりました。
また飯田さんは,
仮説実験授業以外にもいろんなことを教えてくれました。
とにかく飯田さんのアイディアやアドバイスが
私にとって「やってみたい!」となっていました。
私は飯田さんがやっていることを積極的に,
自主的にまねしまくっていました。
とはいえ,職場ではうまくいかないこともあります。
その時は,電話して話を聞いてもらっていました。
時には2時間を超える電話も笑。
とにかく私にとって飯田さんは「お父さんみたいな存在」でした。
「私,飯田さんから育ててもらっている」という言葉が
ぴったりとあてはまるくらい。
そして「いつか飯田さんみたいな先生になりたい。飯田さんみたいな学年主任になってみたいな」とも思っていたとも思います。
● もっと動くようになるよ
初任校で五年間,飯田さんにたくさんのことを教えてもらいました。
しかし、私は地元に戻ることになりました。
不安だった私に飯田さんは
と言ってくれました。離れるのは本当に悲しかったけど,
そうやって励ましてくれて応援してくれたのが飯田さんでした。
そして飯田さんが言ってくれたように
全国各地を飛び回るようになりました。
その代わり,飯田さんと会う機会は少なくなっていきました。
しかし誕生日には毎年メッセージを送っていましたし,
私がやっていることをSNSで知っていて「みているよ。頑張っているね」と言ってくれました。
昔みたいに頻繁に連絡をとることはありませんでしたが
便りの無いのは良い便り とも思っていたので,
いつか飯田さんに会いに行こう,そしてその時いろいろ話したいな とも
思っていました。
2022年,飯田さんの誕生日。
いつもはメールでお祝いメッセージを送っていましたが,
電話でお祝いを伝えました。
私がいろいろと思っていることを話していたら,
いつものように わははは と豪快に笑い,
「文ちゃんなら大丈夫だよ」と励ましてくれて,
「またこっちに来たらうちに泊まりにおいでよ。いろいろ話をしよう」と
言ってくれました。
それが,…飯田さんとの最期の会話となりました。
● 最後に
飯田さんと出会えたことは,
偶然だけど…私にとっては奇跡だったんじゃないかと思います。
そして私は今,初任者や若い人たちと同じ学年を組むこともあります。
でも今まで組んだ若い先生たちはみんなしっかりしているし,
なんでもできるし,私からみてその先生たちが困っている というところが
全くわからない。みんなスマートに生きているようにみえます。
と,考えると…
ビビりだし,うるさいし,落ち込みやすいし,すぐに顔に出るし,質問しまくるし,よく笑うしよく泣くし…。
喜怒哀楽が激しい私と関わるのって,飯田さんとっても大変だったんじゃないかな?と思うことがあります。
そのことが気になって,
以前飯田さんにたずねてみたことありました。
すると飯田さんは大笑いして
と言ってくれました。
でも,いまだに私みたいに
「わかんない。つらい。困ったー。助けてー」って騒いでいる
若い先生見たことないです…。
「飯田さーん。聞いてくださいよ。中村,この年齢になっても全く落ち着かないですよー!」…なんてお互いにゲラゲラ笑いながら話をしたかったです。
でも,もうそれができないのが悲しいです。
飯田さんが教えてくれた・関わってくれた5年間は
私にとって宝物であり,今の私の基盤をつくってくれたものだと思っています。本当に感謝しています。
それを直接伝えたかったです。
もう会えないけど,
飯田さんが私に教えてくれたことは,私の中で生き続けています。
そして飯田さんから教わったことを誰かに伝えられたらいいな なんて思っているけども,…なかなか飯田さんみたいな先生になれていないのが現状です。
でもね,今も私は,私らしく生きています。
これからも,たのしい教師生活を送っていきたいと思っています。
本当にありがとうございました。
今の私があるのは、飯田さんとの出会いがきっかけだったと思います。
本当に出会えてよかった と思っています。
こちらの記事の元の資料は下記に掲載しています。
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