私が子供だった頃

 私が子供だった頃、天気予報は気まぐれなものだった。「今日は一日晴れるでしょう」との言葉を信じ、傘を持たずに出かけたら見事に雨に降られてしまった、なんてことは割とよくあった。

 何かと気ぜわしい現代人は罪なき空に悪態をつくだけでは足りず、放送局に苦情を申し立てることすらやりかねないけれど、当時は「天気予報なんて所詮こんなものさ、」と、みんな呑気に構えていた。

 確か7歳か8歳ぐらいだった。朝の眩い青空に騙され傘なしで学校へ行くと、登校する児童たちの恐らく半分以上が傘を以てきていた。

 教室は帰りの天気の話題で持ち切りだった。

 「夕方から降るかもって今朝のニュースで言ってたよ」

 「でもどうせ当たらないよ。この前も昼から降るって言ってたのに、結局一日晴れてたもの。」

 「もし降らないなら置き傘すればいいってお母さんが言ってた」

 そういえば夕方から天気が崩れるかも知れないと朝のニュース番組で言っていた。その日の私は朝寝坊をして、傘のことなどまるで頭になかった。

 窓から見える空には白い雲が気持ちよさそうに浮かんでいて、雨が降る気配など微塵もなかった。まだ見ぬ先の空模様を言い当てる天気予報に、よく当たる占いにも似た不思議を感じた。

 「今日は学校が夕方までに終わるから、きっと大丈夫!」

 私は根拠なく晴れ続けることを確信していた。

 そんな私の気持ちをよそに、昼下がりから雲行きが怪しくなり、真っ黒な雲から雨が降り出したのは、まさに授業が終わって帰りのあいさつを済ませたときだった。バケツをひっくり返したような、という決まり文句がぴったりはまる本降りの雨で、傘があったって濡れることを覚悟しなければならないほどだった。

 友達の傘に入れてもらって帰ることも考えた。でもその日に限って帰り道が途中まで同じ久美子ちゃんは熱で休みだった。置き傘の備えもない。締め切った窓越しに聞こえる雨音は猛獣の唸り声みたいで、しばらく収まる様子がないどころか、遠くで雷まで鳴り始めた。私は雷が大の苦手だった。

 帰り支度を済ませた私は意を決して教室を出た。滝のような雨の中を濡れて帰るのは気が進まなかったけれど、雷が近づいてくるまでには何としてでも家にたどり着きたかった。

 同じく傘のない男の子たちがはしゃぎながら雨の校庭を駆け回っている。バカ騒ぎする男子は嫌いだったけれど、この時ばかりは雨にも負けない暢気さうらやましく思った。

 良太くんを見つけたのは、浮かない気分で階段を降り、靴を履き替える下駄箱に着いたときだった。良太くんは私と同じ通学路の友達で、無防備な私とは違い、傘を持っているばかりか、雨用の長靴まで履いていた。

 「良太くん!」 私はこれ幸いと大きな声で呼び止め、甘えた調子で言った。一緒に帰ろう。私、傘忘れてきちゃったんだ「」

 良太くんの返事はつれないものだった。

 「一緒に? そんなの嫌だよ」

 「いいじゃない、途中まで同じ道なんだから。友達でしょ?」

 「嫌だったら嫌だよ」

 良太くんは譲らなかった。私はだんだん腹が立ってきて、「それならもういいよ。私は濡れて帰るから」と言い放ち、スニーカーに履き替えるなり良太くんを押しのけ、校舎を飛び出した。

 我ながらずいぶん我がままで理不尽なことを言ったものだ。濡れて帰らなければならなくなったのは全て良太くんのせいだとでもいう素振りをして。

 雨は相変わらず強く真っすぐ降り続いていた。雨粒は容赦なく冷たかった。それ以上にさっき良太くんに言った言葉が心に突き刺さっていた。いけないことを言った私は雨に打たれて当然なんだ、悔しくて情けなくてやりきれなくて、涙が止まらなかった。涙は絶え間なく降り注ぐ雨のおかげで、あっという間に洗い流されたけれど。

 後ろから私を呼ぶ声が聞こえたのは、校門を出て横断歩道を渡り切ったときだった。

 「これ、使えよ」

 振り向くと、全速力で駆けてきた良太くんが私の手に傘の柄を握らせた。黄色と青色の映える、いかにも男の子が使いそうな傘。

 「え? なんで傘使わないの? 途中まで一緒に帰ろうよ」

 私は、そのまま走り去ろうとする良太くんを呼び止めた。

 「だからそれは嫌だって言ってるだろ」

 私は受け取った傘を開くこともせず、良太くんの背中を追いかけた。良太くんに負けず、全速力で。

 追いついたときには、私も良太くんも既にずぶ濡れだった。このときほど足が速いことをありがたく思ったことはない。良太くんはふてくされた様子だったけれど、何も言わず、私が開いた傘に入ってくれた。曇天の空が黄色と青色に覆われる。傘越しの空は、二人だけの宇宙に変わった。だって、そのときの私は良太くんのことが好きだったから。

 一緒に歩いた時間はほんの数分のことだったと思う。その間良太くんと何を話したのか、悲しいぐらい忘れてしまった。もしかしたら何も話さなかったのかも知れない。でも、そのわずかな時間は尊く、いつまでも私の心の中に残り続けるだろう。そんな予感めいた手ごたえを、今でもはっきり覚えている。だから、心配して傘を持ってきてくれたお母さんを、そのときほど恨めしく思ったことはない。

 あの日と同じように、今日も昼下がりから雨が降っている。ピンポイントで雨を予言してくれる最近の天気予報には、不思議を超えて恐怖すら覚えてしまう。

 部屋干しした洗濯物の様子を見て一息つくと、小学2年生の娘のことがふと気になった。玄関先に行ってみると、案の定虹色のカラフルな傘が置き去りにされていた。あれだけ午後から雨が降ると言っていたのに、傘を忘れて学校へ行ってしまったのだ。

 そそっかしいところは私譲り。どんなに天気予報が正確になっても、人の心は相変わらず気まぐれなままなのかも知れない。

 下校の時刻に合わせて傘を届けてやろうか。そう思いかけて、やっぱり止めた。余計な手出しをしなくとも、子供は子供なりにちゃんとやっていける。人一倍心配性な私だけれど、今日は素直に子供の力を信じることができた。

 雨よ降れ、もっと降れ。そして娘よ、大きく育て!

 遠くで雷鳴が響く。でももう怖くない。私には私の、決して揺るがない場所があるから。

 季節は確実に変わりつつある。この夏はいっそう暑くなる気がした。あの頃と同じように。いや、あの夏以上に。

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