短歌の勧め

絵を描くのが好きだった。絵を描いていると、絵の中の世界にとっぷりと浸ることが出来た。
また描き終えた絵は、心をいやしてもくれた。絵は、ときとして本物以上に本物らしく、観ている人の心に語りかけてくれるからだ。

失明する前に描いた絵のことは、今でもはっきりと思い出すことができる。もしあの頃桜の絵を描くことがなかったら、今ほど鮮やかにその姿を思い出すことはなかっただろう。
僕は特に風景や事物を描くのが得意だった。もちろんそれなりの写実性は備えていたが、それだけでなく、対象の本質をさらりと切り取るのが上手だったように思う。
例えばミカンを一つ描くにしても、その角度や光の当たり具合、配置、どのミカンを選ぶか、あるいは少し皮をむいてみるなどの一工夫で、印象ががらりと変わることを自ずと理解していた。
僕は描くにあたり、その一工夫にいつも最大限の労力を費やした。結果、僕の絵は他の子どもたちの無邪気な絵とは一線を画すものとなった。教師や同級生たちはもちろん、親ですら僕の絵を褒めてくれた。
でも、それは他者から評価されたいという動機からではなく、あくまで純粋な探求心によるものだった。僕は絵を描く行為を通して世界との距離を縮め、世界のより深い部分を理解できることに喜びを感じていた。
中学に上がったら迷わず美術部に入るつもりだった。もっといろいろな種類の絵を観て、もっといろいろな種類の絵を描きたかった、
失明してその夢もまた幻に終わったわけだが。

先日、知人に短歌を作ることを勧められ、昔描いていた絵のことを思い出した。
あくまでイメージだが、短歌などの短い定型詩は、その時々の風景を心情とともに切り取ることに向いているジャンルのように感じている。そしてそれは絵を描くという行為ともどこか通じるものがあるのではないか。
極めて散文的な性格の自分に歌を詠むことなどできるか、はなはだ疑わしいものだ。でも、誰かに評価されるためでないのなら、どんなことだってできる。
アマチュア最大の特権は、すべてにおいて自由だということだ。だったらもっと気楽に考えてもいいのではないか。そんな気がした。

表現には、その種類を問わず、人を癒す側面がある。
それが自分のみならず、誰かの心を癒せるものであることを願いつつ、僕は言葉を探す。
ああ、道のりは険しく長い。
でもまずは純粋な気持ちで言葉と遊んでみたい。もしそれができるなら。
子供のころ、夢中で絵を描いていたときのように。