見出し画像

【ソウウツ通信】たぬきの楽しい躁鬱病【2】

 こんにちは。2回目を書いてみることにしました。
 特に何を書こうかという設計図みたいなものがあるわけではないので、雰囲気で書いていきます。
 さて、「はじめに。」でも書きましたが、たまーに自己啓発本とか、最初は鬱病という診断だったので、鬱病関連の本を読んだりしていたのですが、一歩間違えるとスピリチュアル本だったり、自己啓発本なので「心の持ち様」のアドバイスだったりする本が多かったりします。
 スピリチュアル本は科学的に物事を考える性格からちょっと苦手です。自己啓発本の「心の持ち様」のアドバイスも、出来れば苦労しないよ!と思ってしまうものばかりで、知識としては役立つのですが、実効性が乏しい。
 そして、鬱の体験談のようなものはどれも暗い。躁鬱病関連の本はほとんどない。鬱病や躁鬱病の人がこれらの本を読むときはきっと気分が落ち込んでいるときですから、読んでてあまり楽しくないんです。
 たまに「パパは楽しい躁うつ病」(北杜夫)みたいな面白おかしくした体験記みたいなものもあるのですが、躁鬱病ってぱぱっと治るものじゃないと思うんです。となると長く付き合っていかなければならない。それなら、病気と敵対するんじゃなくて仲良くなっていく方、楽しく付き合っていく方に重きを置いた方がいいんじゃないかな、と勝手に思ってます。
 簡単に言うと、もっと楽しく躁鬱病の体験や、その付き合い方を書いた本があればうれしいのに・・・。と思っていたわけです。そんなふうに思っていた中「躁鬱大学」(坂口恭平)が出版されて、その軽やかな文体からとても読みやすく、そうそう、こういうのが増えて欲しいのよ!なんて思いました。
 「躁鬱大学」を読んだ当時も、僕も楽しく躁鬱病のことについて書いてみようかなー、と思ったのですが、読んだ本の記憶が新しい状態では絶対に真似してしまうと思ったので、ちょっと放っておいたのです。
 しばらく放って置いたら、いい具合に内容を忘れ始め、「低空飛行のふつう」状態になり、さらには暇になったので僕も書いてみようと思い立ったわけです。放っておき過ぎて腐らせてもなんですし、この勢いを活かして書いてみちゃおうってことです。
 でも、目指すところは躁鬱大学への入学なので、結果的に似通った内容の劣化版みたいになるのかもしれませんが、まあ、それはそれで致し方なしです。ちなみに、坂口恭平さんの言う「躁鬱病の方」→「躁鬱人」というのは短くて使いやすいので丸パクリして今後、使うかもしれません。
 さて。前置きはこのくらいにしまして、今回はなんで躁鬱病という病気の人が1%弱という一定数世界に存在するのか、ということを考えてみました。だって、人類の生活を脅かすような病気だったり障害だったりしたら、ふつう遺伝的に淘汰されちゃうはずなんですから。
 きっと、社会の中で躁鬱人(早速使いました!)も何かしらの役割があるからこうして一定割合で出現する「個性」として生き残ってきたのだと思います。
 個人的には生き残ってくれるな!おかげで・・・なんて思いますが、生き残って、そして自分がその躁鬱病になったからこそ、この病気の存在意義を考えずにはいられないのです。
 まあ、結論的には躁鬱病が人類の中で生き残ってきたのは多分「突破力」ってやつが必要とされているからなんじゃないかと思います。
 ふつうの人が穏やかな夏の太平洋のような気分の波をゆらゆら乗っていくものだとしたら、躁鬱人は冬の日本海。高い時はめちゃくちゃ波が高い分、波の谷間もうねりもすごいといった感じです。波乱万丈ですね。
 高波の破壊力は一般人がドン引きするほどの行動につながることにもなりますが、時代にフィットしたりすると、革新的なアイデアだったり、サービスにつながることだってあり得ます。
 僕は上の波が「こいつちょっと最近テンション高いなー」「怒りっぽいなー」「アイデアやたら出して勝手に疲れてんなー」といった程度の割と低めの波なので社会への(良い)影響はたかが知れていますが、勢いのある会社の中には「こいつ変人すぎる」的な経営者がいたりするのもまた事実です。
 この「突破力」の代償に鬱期がやってくるのです。
 ドラゴンボールでいうところの界王拳みたいなもんだと思っています。自分の持っているエネルギーを「躁」状態のときに集中させ「突破力」を作る分、その後の消耗がはげしいという・・・。
 躁鬱病の治療は界王拳を使わせないようにすることです。界王拳を使わなければエネルギーの消耗も少なくなるので、鬱期が訪れにくいというわけです。
 ただ、そんな躁鬱人は突破力を犠牲にします。失います。必殺技があるのにドクターストップがかかっている状態です。「これでよかったのか?」と結構思ったりもします。
 僕はさっきも言った通り今は薬の影響でか「低空飛行のふつう」状態で躁鬱治療の目指す波の高さに落ち着いています。僕の中では元気な時に分類される状態。
 そんな状態になってみて思うと、あの躁状態の全能感というか突破力を失ったのがちょっと寂しい気持でもあります。
 突破力は確実に失われました。とはいえ突破力のある状態、つまりは躁状態、言い換えればゾーンに入ってる状態だと、毎日ハッピーで多幸感で満たされているのか・・・と言うと全然そんなことないので、二度と経験したくないという気持ちもあります。
 躁状態の時のお話はまたあとで書くかもしれませんが、確かに躁状態のときは次々に(実現できるかは別にして)新しいアイデアが思いつき、(コミュ障は変わりませんが)饒舌になり、頭脳明晰(になった気分)になります。
 多幸感では満たされませんが、鬱の時の全てが楽しくない状態よりはまだマシで、「楽しみ」がある分、ゾーンに入ったときの方が幸せを感じやすいのもまた事実です。
 僕は躁状態の苦しさも、その反動による鬱状態の苦しさもなるべくなら味わいたくないので、薬による低空飛行を今のところ許容するつもりではいますが、その苦しさをもってしてもやりたいことがある!・・・という躁鬱人は人様にあまり迷惑を掛けない範囲では躁鬱人の道を突き進む、というのもアリなんじゃないかと思ったりもします。
 険しい道ですが、それによって得られる「突破力」は躁鬱人以外には持ちえないものなのですから。ある意味、IQ高い人とは違ったベクトルの「ギフテッド」というやつともいえるわけです!
 躁鬱人は遺伝的に、社会的に必要とされた選ばれし者。ギフテッドなんじゃないかと思います。(ある意味ですが)
 と、ここまで極論を言った方が面白いかと思ったものの、この文章は躁鬱病礼賛を意図したものでは無いので、「そういった心の持ち様」だといいのかもね・・・といったくらいの温度です。まあ、そうなると自己啓発本みたいになっちゃうのですが。
 とにかく言いたいのは、躁鬱人の気質を持って生まれて来たからにはなにかしらの意味があるってことを言いたかったのです。
 僕は現在、せっかく与えられた突破力を薬で抑えていますが、突破力を発揮しながら、その後の鬱期が訪れない方法がないもんかちょっと考えてみます。そしたらもう超人じゃないですか。デメリットのない突破力を手に入れたら。できるもんならその能力を手に入れてみたい。せっかくのギフテッドなんですから。
 先ほど、「気分の波」で表現しましたが、躁鬱人は高波が普通の人より高い分、波の谷間(鬱期)が深くなると言いました。これは、躁鬱人もふつうの人も波を作る海水の量が同じという基本原則に立ったものです。
 海水はその人が持っているエネルギーの総量と言えるでしょう。
 じゃあ、海水増やせばいいんじゃない??っていうのが単純なアイデアです。海水が増えれば渦高い波を形成しても、その影響を受けた波の谷間はそんな深いものにはならないでしょう。
 どうでしょうか?あとはエネルギーの源たる海水を増やす方法を考えればいいような気がしてきました。
 と、言っておいてここで注釈ですが、僕の書いているこの文章は、単純な体験談でもなければ、僕が15年間の躁鬱病経験で培ってきた躁鬱病との付き合い方のアドバイスでもありません。ただ、躁鬱人たる石川狸がタヌキの皮を被って好き勝手に言いたいことを言っているものになります。そもそも、今現在たまたま症状が安定しているだけであって、今の暮らし方が必ずしも正しいとは言い切れないからです。
 なので、すべてが役に立つかといったらそういうわけではないと思います。躁鬱病の方や、近しい方々にとって、まあ、役に立つこともあれば、考えるきっかけになるようなことがあったりすればいいなと思っています。
 僕と同じ躁鬱人にとっては「同じような経験がある!」とか「たぬきの場合はこんな感じなんだな」みたいな共感をしてみたり、自分との違いを知ってもらったりしてもらえたらと思っています。
 僕も同じ躁鬱人の書いた文章だとか経験談とかを読んでみたいと思っていながらも、あまりそういう書籍などを見つけられなかったので、自分で書いてみよう!と思って書いているわけなので、躁鬱仲間や近しい方々からお話を聞く機会なんかがあったらうれしいなとも思っています。
 さて、話は戻りまして。
 エネルギーの源たる海水を増やす方法がないもんか?というお話です。
 他人より高い波を持っていて突破力のある躁鬱人。めちゃくちゃプラスに考えれば一種の才能です。冷静に考えてみても現代まで躁鬱病の患者が淘汰されずに残ってきたのは人類にとって何かしらのメリットがあったと言えると思います。
 さきほども躁は躁の時で苦しいんだよ、その話はいずれ書けたらいいなと思ってるよ、と言いましたが、とりあえずその話は別の機会ゆずるとして。突破力を持続させたい、その一点に置いてエネルギー(海水)を持続させる方法がないかというものです。
 ・・・と書いてみて波・海水だと分かりづらいなと今思いました。やっぱり表現を変えます。(勢いで書こうと思っているので、書いてしまったものは消さずに、無かったことにしようと思っています。)
 気分の上げ下げを波とたとえたのは、主治医の先生のお話からくるものでした。
 上げ下げを波として捉えた方が分かりやすい場合もあれば、別の例で例えた方が分かりやすい場合もありますね。
 今回のお話では蓄電池というたとえがいいのかもしれません。
 鬱病も躁鬱病も考えが偏ってしまい、より調子を悪くする症状もある病気ですからこの臨機応変さはつねに意識したいものです。(調子が悪い時はそれを改善させる認知行動療法なんかを受けることもあるのですが、効いたためしは一つもありません。「考え方を変える」という実行不能な自己啓発本を読んでいるような気分です。)
 要は物事にはいろいろな視点があるという意識を持つということです。昔、理科だか物理で習った「光の波動性」と「光の粒子性」みたいなもので、躁鬱の気分の上げ下げも「躁鬱の波動性」とともに「躁鬱の粒子性」という見方もあるということです。
 さて。ということで蓄電池(よくわかりませんが、電子を溜める的なイメージで「躁鬱の粒子性」としました。)として躁鬱気分の上げ下げを考えてみます。
 人間が一定期間(1年でも一生でもなんでもいいです。ここは1年ということにしましょう。)に使える電力(気力)はどの人も大抵同じだとします。
 ふつうの人だったら、たまに羽目をはずして電力を無駄遣いすることもあるけれど、たかが知れていて、その翌日とか翌週に使用電力をセーブすることによって割と安定した電力量の配分で1年を過ごすことができます。
 一方、躁鬱人は最大使用電力量が半端ありません。もう、エアコン使いながら、ドライヤーで髪を乾かし、その間に電子レンジでごはんを温め、IHヒーターでお湯を沸かす・・・みたいな感じで使うときはとことん使います。
 そんなわけで贅沢に電気を使っているときは色々使えて便利そのものなのですが、あとあと電力量が足りなくなって困ることになる。電気を大量に使っているときは、あとあと困るってことが分からない・・・というか大量に使うのを抑えきれないといった感じです。
 この大電力を使う状態のメリットという点では「突破力」につながりますし、デメリットとしてはおいおい電気が足りなくて鬱状態に突入するということになります。
 じゃあ、最大使用電力を使い過ぎないようにして、電気不足の時の深刻さを和らげよう・・・というのが薬物療法です。僕はいまこの治療を受けているということです。エアコンとIHヒーターを消しているくらいな感じです。
 でも、エアコンもIHヒーターも自由に使えた上で、以後電力不足にもならなければ突破力もありつつその反動たる鬱期も来ないという最強の躁鬱人が出来上がるんじゃないかと考えたわけです。(なんども言いますが、躁の時はそれはそれで苦しいものです。)
 なんとかその方法がないか考えてみました。
 でも、結果的にはそれなりのデメリットを持っていました。
 結論的には「他の人より充電の機会を多くする。」ということです。
 ふつうの人たちだって仕事や人間関係で疲れて、「たまには温泉でも・・・」と心と体を癒しに行くことがあると思います。これは僕がたまたま温泉が好きだからのたとえですが、おいしいご飯を食べに行くとか、好きなアーティストのライブに行くとかスポーツをしてストレス発散するとかそういった類のことです。これが充電する機会です。
 躁鬱人は最大使用電力が莫大な人ですから、人より多く充電しなければなりません。
 充電とはストレス発散、別の言い方だと自分を癒すことです。
 よく考えたら僕自身ちょっと頑張りすぎてる、ヤバいヤバいってなったとき、好きな旅行に行ったり、温泉に行ったり、ツーリングしたり、畑をやったりとこまごまと癒しの時間を設けていることに気が付きました。半日レベルだとサウナに行ったりしています!自律神経整う気がします!!
 これは鬱病から躁鬱病と診断が変わり、自分の特性を無意識に理解したことによって自然とそういう充電を多くしようと考えた結果だと思います。
 なので、他人から見たら僕は遊びすぎているように見えます。ふらーっと旅行に行ったり、平日の真昼間に野良作業をしたりしているからです。
 「大した仕事もしなくて、自由気ままに暮らしていけていいね!」といった言葉を直接的、間接的に何度も言われました。
 これがデメリットです。
 僕自身の「充電」(気力の回復)は時間はかかるけれども、そんなにお金を使わないものばかりですが、人によっては時間もお金もかかります。
 躁鬱人は「突破力」を持ちつつ、そして、その持続性と電力不足を起こさないために、充電期間を長く持たなければならないのです。
 人から見れば遊んで暮らしているように見えるでしょう。
 僕で言ったら経験的に一カ月のうち22日は充電しないとやっていけません。
 それだけの時間的、金銭的余裕があればいいですが、ふつうはそんな人めったにいません。そこが悩ましい所です。
 まあ、これは極端な例ですが、躁鬱人にとってこの充電をする機会というのがとても大事なことだと思っています。
 充電だ、電力だという例えを無しにすると、自分を労わる、褒める、癒すといった機会を多く設けるように頑張るということです。
 躁鬱人は往々にして自虐的だと思います。僕もそうです。それでいて僕はサービス精神が旺盛で、人を笑わせたいと思っているので自虐的なネタや失敗談をよくみんなに話していて、そして「運のない人」「タイミングが悪い人」みたいなレッテルを貼られています。
 それはそれでいいのですが、その分傷ついた心を思う存分癒してあげて欲しいと思います。
 僕はこの文章を書き終えても多分暇なので、どこか東北の方の温泉に行ってきたいと思っています。もらったボロボロの軽バンがあるので、全部車中泊の貧乏旅行ですが。
 なんかとりとめもない話になってきましたが、あんまり長いと誰も読んでくれないので、まとめると、①躁鬱人は社会に必要とされているから存在する。②それは「突破力」である。③ただ、その分エネルギーを消費しやすいので普通の人より自分を労わる機会を多く(意識的に)設ける。・・・といったところでしょうか。
 好き勝手書いて今日のところはこんな結論に至りました。
 と言うことで、躁鬱病の本と言うとなんか暗ーいイメージがありますが、なんとなくなノリで、軽い文体で、反省せずに、そしてなるべくおもしろおかしく書いていけたらと思っています。
 ではでは。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?