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シティボーイズ、ふたたび

シティボーイズの2年ぶりのコントライブのチケットがとれた。プレオーダー情報が出たのを見逃して、一般発売の朝10時にドンという綱渡りになり、最終公演はとれなかったけど、どうにか最終日の1回目の公演のチケットを滑り込みで確保。

毎年ゴールデンウィークの頃にやってた単独ライブではいつも、楽日のグダグダトークを楽しみにしていたので、最終公演とれなかったのは残念だけど、私の青春時代のアイドルであるおっさん達の舞台をまた目の前で見られるだけでラッキー、幸せと考えることにします。よかったー。

中学三年か高校一年ぐらいだったと思う。1980年代の後半に、シティボーイズを中心とする演劇ユニット、ラジカル・ガジベリビンバ・システムのステージをテレビで見たのをきっかけに、大竹まことのファンになった。

当時の大竹まことは夕やけニャンニャンというアイドル番組にかなりの暴走キャラとして出演しており、大竹まことが好きだなんてうっかり言ったら人間性を疑われる雰囲気があった。ので、大竹まこと好きは心の内に秘めて、深夜番組の出演をチェックしてこっそり見たりしてた。ある種の背徳感とともに愛を育てた、みたいなやつです。(←なんじゃそりゃ。)

だけど、当時ちょうど小劇場演劇にハマり始めていた私は(夢の遊眠社とか第三舞台とか、遊機械◎全自動シアター、劇団3◯◯、青い鳥、SET、新感線、第三エロチカ、秘宝零番館、流山児とか転位21、ギニョル…挙げきれないけど、とにかく沢山の劇団がまだ若く、普通に手の届くチケットで舞台をやってる時代だった)、シュールで演劇的で知的でサブカルホイホイでけしからんほど不謹慎で、時代と添い寝する感じとされおつな音楽に彩られたシティボーイズの(いい意味でもけしからん意味でも)オトナのコントにぎゅっと心を鷲掴みにされて、早く大人になってこの人たちの舞台を観に行きたい、って思ったのだ。

全部のネタが理解できてたかと言うと子どもだから微妙だ。でもあの時代のトンガリ系の舞台は、観客に優しく丁寧に説明する代わりにおいてきぼりぐらいの勢いで疾走し、客は頭をフル回転させてついていくというエクストリームスポーツ的な面白さがあって、背伸びしながらそこに食いついていくのが10代の私には楽しかったのだ。早く大人になりたい、そういうお年頃だもん。

だけど、下北の劇場や早稲田の劇研のテント公演なんかには行ったことがあったものの、現実的にはまだまだお子さまだった私にとって、ラジカル…が公演をうつラフォーレ原宿とかそういう場所はちょっとばかり敷居が高かった。今思うとスズナリみたいなアングラ劇場に行くのが平気で渋谷や原宿は敷居が高いってヘンな話だが、子どもなので仕方ない。

そんな訳で、実際にシティボーイズのライブに行くようになったのは大学生になってからだ。当時の演出は三木聡。音楽はピチカートファイブという贅沢な布陣だった。シティボーイズのライブの歴史全体からみても、最も勢いのある時代だったんじゃないかと思う。

行ってみると、テレビに出てる時の大竹さんなんておとなしいものでステージでは三割増しのキレキレ役者だとわかったし、きたろうさんの美味しいとこの持って行き方とか最終兵器斉木さんの自由さとか、すべてがやっぱり好きだった。大竹さんが一番常識人のツッコミ担で、斉木さんがきたろうさん以上の天然ボケだとか、そういうのはテレビで役者さんとして出演してる作品をみてもわからない。

ピー音なしでみるコントはシュールでラジカルで、今その時にしかわからないとんがったネタがてんこ盛り。私はとにかく大好きだったんだけど、友達を誘って、終わってから「…なつめちゃんは、こういうのが好きなんだね…」と若干引き気味に言われる、というのを2度ほどやらかして(←下ネタ多めの回だったか、斉木さんが暴走してたかどっちか)、友達を誘うのは諦めた。

今の時代なら『ラーメンズ好きな人なら誘っても大丈夫』みたいなリトマス試験紙があるけれど、当時のシティボーイズは簡単に説明とか似たものを出してわかってもらうとかできるようなシロモノじゃなかったのだ。

ゴールデンウィーク周辺にライブがあることが多かったので、その頃にはゴールデンウィークに旅行の予定などは入れないように、あるいは前か後にズラして、その時期に東京にいる時間を確保できるようにしてた。

年に一度のお楽しみが途切れたのは、大学院を中退しての結婚と出産、離婚からシングルマザーという超特急ライフが始まる1998年。『真空報告官P』を最後に私のシティボーイズ通いはいったん休止する。

再びシティボーイズのステージを観たのは、銀粉蝶がゲスト出演して、池上本門寺境内の特設テントで行われたアングラ風公演『マンドラゴラの降る沼』だ。2000年に離婚してシングルマザーになり、いくつか職場を変わってから正社員の職を得て、子どもも保育園から小学校に上がったタイミングだった。

シングルマザーになってからの私は振り返ってみても、まあ身を粉にする以外の表現見つからんな、という感じで仕事と育児にすべてを捧げていた。平均睡眠は3時間で有給も週末も子どもの用事や家族サービスで潰れるし、結婚後に夫によって疎遠にさせられてしまった友達と再会して親交を取り戻すような時間も作ることができなかった。

それには実際に忙しかったということと、子どもを置いて遊びに行っていると後ろ指をさされることに対するめんどくささに抗う気力がなかったということの、二つの側面があると思う。遊ぶお金がぜんぜんない、って訳でもなかったけど、とにかく心の余裕がなかったのである。

そんな私が『仕事を早退してでもベビーシッター代を積んででも観に行きたい、いや行くのだ』という湧き上がるパッションと勢いだけで、久しぶりに子ども向けじゃなく、自分のためだけに舞台のチケットとったのが、このシティボーイズのライブだった。

演出家は細川徹に変わっていて、馴染みのいとうせいこうと中村有志が出演していたけど少し雰囲気は変わっていた。それでも、前の公演を見てから8年だったろうか?私の愛するかっこいいオッさんたちが、昔と変わらず全力でふざけるシュールなステージに、私はまた笑ったりギュルギュルと脳の普段使わない部分を使ったりしながら、会社で仕事してる坂上さんでもなく、チビちゃんのママでもなく、ただの『私』に戻ったのだ。

このステージを機に、私はまた少しずつ自分の楽しみのための舞台や映画に出かけるようになった。子どもが小学生のうちはそんなに頻繁には出かけられなかったけど、それでも「来月はこれ見に行くんだー」っていうお楽しみがあると、同じように忙しくしてても気分が違う。

そんな訳で大げさに言えば私の人生を取り戻すきっかけをくれたシティボーイズのライブ、その後はちまちま行ける限り通ってきたんだけど、ついにファイナルと銘打った公演が私にとっては思い出のグローブ座であり、楽日に行って万感の思いに思わず涙を零した、のが2年前。

当時はもう、ライブで観られなくても三人の愛するオッさんたちが元気で長生きしてくれればそれでいい、とか思ってたけど、こうしてまたステージで会えるなんて、嬉しくてワクワクする。

三人とも、もうアラウンド70。歳とったコメディアンなんて老害だ、と大竹さんは言うけど、シティボーイズはまだまだ同じ時代と全力で遊んでくれるグループだ。地上波では流せないステージを楽しみにしてます。

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