見出し画像

「好き」ということについて

【文字数: 994文字】

「書く」という行為は、勉強になりますね。

本を読んで、それについて書く、ということが、
私は苦手なんだと改めて思います。
通勤途中、本を読むのですが、そもそも本当の本好きではない。
今、これを書いている居住空間に本が積まれているとしても。
私が思う「本当の本好き」の方って、
読みきかせの好きなお母さんに絵本を読んでもらって、
物語が好きになって、自分ひとりでも本を読むようになって・・・
そんなイメージなのです。

本を読むのが好きではないのに、なぜ、本を読むかと言えば。
本を読んで「なにか」から抜け出せるイメージがあるからでしょう。
思春期~青年期の頃であれば、自分自身を客観的に見られるようになり、
親との間で学んだコミュニケーションの方法が、
社会で生きていくのには不都合であることがなんとなく分かるとか。

親から受け取る「負」のものは、そう簡単に解決できるものではないけど。
つい最近まで、心理学系の本は読んでいたかと。
それを手放せたということは、親への執着から離れられたのかもしれない。
本を本当に楽しむ、というより、必要に迫られて本を読んだ、
ということだろう。

本を本当には好きでない、ということを考えると、
ほかの「好き」もそれは本当か、ということを考える。

私が「音楽を好き」なのは、
無気力になった自分という状態から抜け出すために、
自分が無意識に選んだ、手っ取り早い方法が「音楽を聴く」という行為で
それがうまくいったからに過ぎない。
気分を変えるのに即効性があるのが、音楽。
まぁ、「音楽を聴くのは好き」と言えるだろう。
みなさんが言う「音楽が好き」よりも、好き度合いは低いかもしれないが。

私の「好き」が危ういのは、
元々、父親が「好き」ではなく、
思春期以降、母親を「好き」ではなくなり、「かなり嫌い」となり
人間関係のスタート地点で「大好き」をつくれなかったからだろう。
それでもなんとか生きてこれた。
父母にかわる、心が通じる人達に、偶然出会えたから。

でも、この先、なにかを「大好き」となる心の状態にはならない。
執着することも薄れていき、
「この世から半歩降りる」という状態になるのかもしれない。
それでいいのですが。

「好き」ということを考えてみて、
なんとなく自分の心の状態を、客観視出来ました。
有り難うございました。


alexandre_141さんの素敵な「夕暮れ」の写真を使わせていただいた。)