オスロでスリに遭った時のこと

何年前だろうか、ノルウェーでスリに遭ったことがある。

当時、私は北極圏でオーロラを見るのを目的に、友人とフィンランドのロヴァニエミ、スウェーデンのキールナ、ノルウェーの北の方(忘れてしまった)を巡り、その後スウェーデンのストックホルムへ戻り、日程の関係で先に帰国した友人と別れ、マルモ(スウェーデン)に寄ったりしながら、ノルウェーのオスロを経由して、デンマークのコペンハーゲンから帰国するという北欧周遊を組んでいた。

都市間移動は全て鉄道で、ノルウェー北部からストックホルムに戻るまでには丸一日電車に乗り続けるという、これぞまさしく乗り鉄本望とでもいうべき、超がつくほどの鉄道旅だった。

加えて、ロヴァニエミではうっすら、キールナでは非常にダイナミックなオーロラを見ることができた。(そのオーロラは神秘的で、美しいというよりは恐怖を感じるようなものだった。)

旅の目的は大達成できたと言えるだろう。しかし、旅程の後半で思わぬトラブルがあった。スリである。日頃から警戒心が強い私には、国内外問わず初めてのことだった。

治安が良いと言われる北欧の中で、オスロに降りた時には、これはまずいと直感が働く雰囲気があった。思えば、スウェーデンからノルウェーへ入る辺りの電車の中では、繰り返し、「荷物に注意しなさい、誰かがあなたの荷物を狙っている可能性がある」というようなアナウンスも流れていた。

到着が夜だったということもあり、街の雰囲気からしても不安がよぎったので、当初徒歩で向かう予定だったホテルまでの移動を、急遽トラム使用にすることにした。けれども、これが逆にまずかった。

重いスーツケースとその他の荷物を抱え、おそらく乗車時に一瞬、スーツケースを持ち上げるため、手荷物から意識が離れた時を狙われたのだろう。車内や道中ではもちろん注意をしていたし、近づいてくる人などもいなかったが、ホテルに着いてチェックイン手続きをし、部屋で荷物の整理をしようとした時に財布がなくなっていることに気がづいた。全身から血の気が引いた。旅程はまだ一週間ほど残っている。

幸いホテルは全てプリペイドで朝食つきのところを予約していたし、分散管理でパスポートやレイルパスや帰りの航空券は残っていた。宿、移動、帰国まで最低限の食事の心配は無い。キャッシュも分散させていたので、スーツケースには残りの分が入っている。

しかし、何より、まずはクレジットカードを止めなければということで、フロントに事情を説明し、電話を使わせてもらい、日本のコールセンターへ電話をした。盗られてすぐということもあり不正使用の形跡はなかったので一安心。

次のステップはこれからどう帰国するかであった。キャッシュは分散管理していたので、スーツケースの中には残りの分が入っていた。しかし、スーツケースの鍵を財布に入れていたので、財布がない今、スーツケースを開けることはできない。フロントに相談してみたら、警備のおじさんのような人を呼んでくれて、一緒にあれこれ試してみた、ものの、やっぱり開かない。

仕方がないので、現金・カード無しでどう帰国まで過ごそうかを考える。レイルパスはあるから、この先コペンハーゲンまでの移動は問題なく行える。その道中で空港に寄って、空港でスーツケースを開けられないか、試してみよう(TSAロックなので、空港ならもしかしたら…という希望)。とりあえず、オスロ滞在中は情報収集などお金を使わなくてもできることをして凌ごう。アドレナリンが出まくりの頭でそこまで決めて、就寝した。

翌朝。朝食をとり、ネットで情報収集をした。とりあえず、大使館を頼ってみようと、地図で場所を確認し、手持ちのガイドブックと照らし合わせて出かけて行った。小銭も無い状態ではトイレに入ることもできないので、道に迷うこともできない。必死に探し歩き、何とか発見し、入館。

前日にオスロに到着し、スリに遭い、財布を盗られたこと、財布の中に現金やカードや鍵が入っており、全て無くしたので、今使えるお金が手元に全くないこと、しかし、スーツケースの中には分散させているお金があるので、スーツケースを開けられれば問題なく旅を続けられること、等々、説明をした。

大使館職員の返答は、スーツケースは街にあるミスターミニットで壊してもらえばよいとのことだった。しかし、そのためのお金が出せない。パスポートなどの身分証も出すので、その分を一時的に借用できないか?(スーツケースさえ開けばすぐに返却できる)と伺ったところ、「それはできない」の一点張り。

え?

大使館としてできることは何も無い、お金は街にあるwestern unionとあるATMで送金を受け取れるので日本から送ってもらうように、しかし、治安が悪いところもあるから、送金の受け取り時には気をつけるように、スーツケースは送金してもらったお金でミスターミニットで壊してもらうこと・・

あまりにも血の通わない回答に絶望しながらホテルまでとぼとぼと戻った。頼めば送金してくれるであろう友人はいるけれども、その気は起きなかった。それ以前に大使館っていったい・・

みじめな気持ちで歩いていると、街中には物乞いの人がたくさんいた。フィンランドやスウェーデンより断然多いように見えた。北欧っていっても一括りにはできないんだよなと苦々しく思った。

所持金なしの状態で最悪一週間過ごすのか。。英語が問題なく通じる北欧圏だったので、言語的な不安はあまり無かったのだけれども、お金が無ければ当然水も食料も買えない、トイレにも入れない、、美術館巡りなどの観光以前に最低限の生活すらままならないのだ。


ホテルに戻った後は、これまたネットで調べて、警察署へ行き、盗難手続きをした。全て英語で行えたので、淡々と事は進んだ。おまわりさん?には「カードは使われていなくても、現金は使われているだろう、財布もまあ戻ってこないだろう、捨てられるから」というようなことを言われた。わりと気に入っていて長く使っていた財布だったので、その点もショックだった。

そんなこんなで最低限の対処をした後、オスロ発までの数日間をどう過ごしたのかは、あまり記憶が残っていない。迂闊に外に出ることもできないので、おそらくほとんどホテルで調べものをしたり、本を読んだり、鬱々としたりしていたのだろう。当然、『ムンクの叫び』は観ていない。オスロにいたというのに。気持ち的にはぴったりのものだったのに。


さて、出発日の朝だったか、その前にもラウンジで見かけて存在に気づいていた、研究職らしき日本人男性二人組をまた見かけたので、TSAロック付きのスーツケースを使っていないか、もしそうであれば、鍵が合う可能性もあるので貸してもらえないか、と、勇気を出して話しかけてみた。

事情を聞いて、片方の方が、残念ながらTSAの鍵は無いけれども、大変な状態なので、このノルウェークローナをどうぞ、と、お金を渡してくれようとしてくださった。

お気持ちは大変ありがたいのだけれども、見ず知らずの方にそこまでしていただくのも心苦しいし、スーツケースの中にはキャッシュが残っていて、もうすぐコペンハーゲンの空港まで移動して開けてもらう予定なので・・と、辞退しようとしたのだけれども、「いや、もしもの時のために、持っておいてください」と強く言われ、名刺を頂いたので、それでは、帰国後ご返却に伺います、本当にありがとうございますと言って解散。

それは頼れる者のないところで不安でみじめな気持ちでいる時に、世の中捨てたもんじゃないかもな、と思わせる出来事だった。


いよいよオスロ発となった。さっさと荷物をまとめ、一刻も早くこの地を去りたいとコペンハーゲンの空港まで移動した。空港へ到着すると、インフォメーションカウンターで事情を説明し、何とかスーツケースを開けてほしいと頼んでみた。すると、警備のおじさんみたいな人が出てきてくれて、あれこれ鍵を差し込んだりしてみてくれたものの、やっぱり開かない。「これはもう鍵を力ずくで壊すしかないが問題ないか?このスーツケースはもう使えなくなるだろう」と聞かれたので、お願いしますと言うと、バキッと鍵を壊してくれた。

やっとケースが開いた。おじさんやスタッフの方に丁重にお礼を言い、現金を取り出した。これで安全に確実に帰国できる。オスロでお借りしたノルウェークローナも使わずに済んだのでそのままお返しできる。ノルウェーではずっと灰色だった世界に色彩が戻ってきた気がした。

その後、コペンハーゲン市街までの電車待ちの間でだったか、理由は忘れたけれども、ノルウェー人男性に声をかけられた。色々話をしていて、オスロで財布をすられた、大変な目に遭ったと言うと、「それは移民がやったことだろうね。”我々(ノルウェー人)”はそんなことはしない。」「貧しい国からたくさんの人々がやってくるんだ、そういう人がやったんだよ。」男性は当たり前のことのように言った。

男性は身なりもよく、相応の教育を受け、それなりの社会的地位にある人のようだった。(もらった名刺はどこかへいってしまったが、確か大手の車会社か時計会社のそれなりのポストの人だった。)

治安が良い、高福祉、教育、幸せ・・といったイメージの強い北欧。それまでにも数回、フィンランドやスウェーデンは訪れていて、そのイメージが大きく崩れることはなかった。しかし、初めて訪れたノルウェーの街の雰囲気、スリ、道端の物乞いの人々、男性の言葉はその後もしばらく頭の中をぐるぐるしていた。(関連は不明だが、その後お金の心配なく滞在できたはずのコペンハーゲンも、いまいち記憶に残っていない。オスロとは違って、不安になる雰囲気も無かったし、わりと普通に過ごしていたはずなのに。明るい色の風景は、ぼんやり残っているんだけれども。)


帰国後、オスロのホテルでノルウェークローナを渡してくださった方に連絡して、デンマーク土産を持って職場までクローナをお返しに伺った。

そういえば、帰国後かなり経ってから、国際郵便でノルウェー警察からノルウェー語で文書が届いた。全く読めない言語なので、そのまま放置してしまったのだが、あれは何だったのだろう。


*****

財布を失くすだなんて、その時以来の出来事だった。もはやそんなに短くもない人生で二回目のことだ。

今回は、おそらくスリではなく、置き引きだろうと思う。最後に財布を触った時の状況からして、急いで移動した際にしまい忘れたものが、その後持ち去られた可能性が高い。

見つけた人は、これはラッキーと、人目を気にしながらそそくさ持ち去ったのだろうか。周りに人のいないところで中身を確認し、ほくそ笑みながら足のつかないものを抜き取り使ったのだろうか。

現金類は仕方ないとして、せめてその他のものは戻って来ないかと、しばらく待ってみたものの、未だに届けはないようだ。

他人の金銭(少なくない)を良心の呵責なく、あるいは多少はあったとしてもくすねてしまう人は、それまでどんな人生を送ってきたのか。もしかしたら、普段ならそんなことはしない人が、今のコロナ禍あるいはそれ以前の不況で追い詰められていて、仕方なく・・?

精神を蝕んでいくのは、失った金銭自体というよりも、社会に潜む様々な歪みの顕在化を、本当に身近な生活圏で目の当たりにしたからというのと、それまで当たり前に存在していたものが突然消え失せてしまったことによるのだろう。あって当たり前のものは、もう、当たり前に無いのだ。

たとえ持ち去った人には”使えない”意味のないものでも、私には必要なものだったのだ。財布も、身分証も、カード類も。全てこっそりと人目につかないようなところで無残な形でゴミとして捨てられたのだろうか。(もちろんキャッシュだって、何もせずに湧いてきたものではない。今回のお財布だって、気に入って10年くらい使っているものだ。)

そういう状況とか、そうする人の心理を思い浮かべるたびに、抉られる。考えても仕方ないことなんだけれども、考えてしまう。


「ニッポンすごい」、「ニッポン美しい」の人々は、日本では財布を落としても丸々返ってくる!流石日本人!と強調するけれども、現実は必ずしもそうではない。

ノルウェーの男性のように「そんなことをするのは日本人じゃない」という人もいそうだけれども、あいにく今は絶賛入国制限中だ。


お金が使われてしまったのであれば、せめてそれが私の手元にあるよりも早く社会に回ったということ、窮地に陥っている小売業界や、誰かの生活のために役に立ったと思うことにしよう。

でも、願わくば、そんなことをする人が出ないような社会になっていってほしい。


「自己責任」で人を切り捨て、助けの手が差し伸べられないと、凝り固まった人は同じく「自己責任」のナイフを人に向けるようになる。そして強力な反動で自分を正当化し、他人や特に自分より弱い立場の人を、揚げ足をとって攻撃するようになる。

忘れたのが悪い、持っているのが悪い、自分は拾っただけ、そこにあったものを使っただけ、最初から無ければ使うこともなかった、だから自分は悪くない・・きっと、お財布が出てこない裏にはそんな風に歪んだ、論理とはいえない論理があるのだろう。


入っていたものの金額としては五万円ほどの被害なのに、ひたすら心が重い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?