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他人には恋愛指南するくせに自分の恋愛になると知能が暴落する不思議


友人が恋愛で右も左もわからなくなっている頃、私はそんな友人たちを俯瞰して見て、アドバイスを求められると論理的に根拠を持って意見できる。
私の恋愛指南に対する友達からの感想は好評だ。
今の本人の状況と本人の意向。相手のことと2人のこと。ヒアリングして状況を整理しながらひとつずつ議論していく。

「どう考えても今この状況はこうするのがいいんじゃない?」
「それで自分はどうしたいの?」
「そう思うならこうしたらどうかな。」
「この場合はこう考えられるからこういう理由でこうするのがいいと思う」

・・・

なのに、どうして自分のこととなると冷静に客観的に考えられなくなるのだろう。個人的な気持ちや考えがあるから他人事と違うのはわかる。大体、自分ではない他人と自ら一緒にいようとする時点で理屈ではないのだ。心の部分が作用しているのだ。

自分の今の状況について、冷静に考えているつもりではあった。しかし、冷静に考えようとすればするほど自分の気持ちと論理的な意見はぶつかり合ってうまく融合しない。
自分の中の理性と心がぶつかる。
気持ちを優先しようとするならば、そもそも冷静に判断しようと合理的に考えること自体が間違いなのか。
気持ちを優先して現実的な問題は許容という1つの措置として、受け止める覚悟が必要なのだろうか。

色々考えるうちに、わたしは自分の気持ちがわからなくなった。
人を好きになる気持ちを的確に説明できないように、人を好きかどうかわからなくなる気持ちもまた説明のつかないものなのだ。これは相手に対しての気持ちだけではないからだ。自分の環境、状況、ノイズ、友達の意見、一般常識、過去の経験、先のこと...。
複数のことが混ざり合って出来上がったこの混沌とした気持ちはなんだ。
何かしらの言葉に置き換えてそれなりに説明をしようとすることはできても、ちょうどいい言葉なんてないから。

人を好きになるきっかけなんて人それぞれだが、好きになった当初のことを正確に説明することはおそらく無理だ。人の記憶は自分の気持ちと共に頭の中で変化していくからだ。自分自身としての認識はそもそも記憶の連続性の中にしかないが、それは細胞分裂を繰り返す自分と自分の半永久的に続く伝言ゲームの中でそれは成立する。事実としての記録は語り継ぐ事ができても、そこに交錯する人の想いや心の部分はナマモノだからこそ、本当の当時の心に触れることは何者であっても、たとえ自分であっても不可能なことなのだ。

人の意見なんて知らない、自分の人生なのに。
自分が望んだことならそれを他人にとやかく言われたとて、いちいち他者の考えに流されずに自分の思う方へ突き進めばいいのに。
しかし、自分が友人に恋愛指南する時、友人が自分の気持ちやこれまでの思い出に引っ張られて冷静さを失っていることを感じる。そのほとんどが理屈ではこうでも心がついていかないと言うのである。つまりAよりBがいいことは自他共に明らかにも関わらず、気持ちはBだと言い張るのだ。
恋は盲目、とまでは言わないにしても、やはり痘痕も靨というのか、そこに気持ちが入れば冷静に判断など当然できないようなのだが、それは自分にも言える。

結局、時に人は人によって導かれることでしか進んでいけないのだと思う。自分で自分の指針を死守することがどれほど難しいことか。それをすることが一概に良いとも言えないから難しい。今の自分は今の自分の思うままに生きるのが望みだとしても、未来の自分が必ずしもその先にある結末を望んでいるとは限らないからだ。

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