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29 「日本の仏像」インドで大暴れの巻 カリスマの誕生|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇

ブッダガヤ奪還の切り札

さて……。二度目の日本訪問を早々に切り上げ、中国・東南アジア・セイロンを経由してインド・ブッダガヤの「戦場」へ帰還したダルマパーラは、マドラスでオルコット大佐と久々にまみえる。老大佐オルコットはといえば、その頃ブラヴァツキー死後の神智学協会に起きた紛争に全精力を傾けていた。 

マドラスのアディヤールに本部を置く協会は、実際のところインド・セイロンを統括する会長オルコット、アメリカに拠る副会長のウィリアム・Q・ジャッジ、そしてロンドンでブラヴァツキーの残した「秘儀部門」を継承したベサント夫人によって分裂状態になり、その泥沼の主導権争いは各種マスコミに「大胆にヴェールを脱いだ」神智学協会の内ゲバとして面白おかしく書き立てられていたのである*12。

そんなお家騒動の最中、若きダルマパーラがどのように立ち振る舞ったのか筆者の持つ資料から詳しいことは分からない。とにかく彼はカルカッタの大菩提会に戻り、ブッダガヤ奪還闘争の次の一手を繰り出そうとしていた。徒手空拳の彼が、長い外遊の末に手に入れた唯一の切り札は、日本仏教徒から託された鎌倉時代の仏像だった。

ブッダガヤへ帰った日本の仏像

一八九四(明治二十七)年四月十一日、ダルマパーラはブッダガヤ大菩提寺に天徳寺の朝日秀宏和尚から譲られた「鎌倉時代の仏像」を安置すべくガヤーに到着した。現地徴税官のマクファーソンから「ヒンドゥー教徒の支持を仏教側に引きつけておくように」と諭された彼はヒンドゥー教の本拠地ベナレス(ヴァーラーナシー)を訪れ、バラモン階級のパンディット連に運動への支持を要請した。しかしバラモンたちは「仏陀はヒンドゥー教のヴィシュヌ神の化身のひとつなのだから、ブッダガヤ大菩提寺もまたヒンドゥー寺院であって仏教徒に権利はない」と突き放すばかりだった。ガヤーの神権領主マハンタはさらに過激な口調で、ダルマパーラが仏像をブッダガヤに持ち込むならば断固として阻止すると恫喝した。

彼は五月十九日の満月、ブッダの誕生・成道・涅槃を祝うウェーサーカ・ポーヤに合わせて仏像の大菩提寺安置を果たそうと尽力したが結局、挫折する。くだんの仏像は近郊のガヤーに留め置かれたままだった。

マハンタの暴行

そして翌一八九五年の二月二十五日、ブッダガヤ大菩提寺をめぐる紛争はついに臨界点に達する。ダルマパーラの日記によれば、事件はちょうど新月にあたる日の早朝に始まった。

朝二時に目を覚まして、しばし瞑想のために坐った。すると私の心は昨日と同じように、菩提樹の下に、日本の仏像を大菩提寺に持ってゆけと暗示を受けた。私は僧侶たちを起こし、しばらく黙想するように告げた。それから我々はその仏像を早朝、ガヤーからブッダガヤに運ぶことを決断した。
沈黙のなかで、私は仏陀のため我が命を捧げると七回誓った。夜明けまえ我々は仏像を梱包し、七時にはブッダガヤに向け出発した。道中ブッダガヤに向かうイスラム教徒の紳士ふたりと出会った。ブッダガヤについてすぐ、仏像を容れた箱を大菩提寺の二階に運び上げた。奇妙な偶然の一致で、二人のイスラム紳士はその場にいて仏像の安置を目撃していた。
私の友人のベピン・バブーはそこにいたが、我々がロウソクに火を付けに行った時、マハンタ配下のヒンドゥー僧たちやイスラム教のムクチアルが上がってきた。そして私を脅して「その仏像をよそへ移せ」と要求した。おぉ……それは本当に苦しい出来事だった。仏教徒たちは自らの寺院で礼拝することが許されないのだ。すさまじい興奮。
マハンタはガヤーに走った。そして夕刻、徴税官のD・J・マクファーソン氏が事態を把握するために到着した。数人の目撃者が調べられた。現場を立ち去るとき、地方長官は「ひどい冒涜がこの寺院でなされた」と語った。彼は検査官にわたしたち一行を保護するよう命じた。我々は寺院のそばなるビルマ・レストハウスに泊まった。

〝Flame in darkness〟p84

仏像の移転命令 日本仏教徒の怒り

ダルマパーラは記していないが、マハンタの手下は四、五十人もいて、棍棒を持って武装していた。彼自身がひどい侮辱を受け、日本の仏像は下の中庭にまっさかさまに投げつけられたという。このニュースは日本をはじめとするアジア仏教国にも伝えられ、各方面から憤激の声が沸き起こった。事件は裁判に持ち込まれ、マハンタの手下たちは罰せられた。しかし植民地当局はあくまで仏教徒に対して冷淡な態度に終始し、日本の阿弥陀仏像が再び大菩提寺に戻ることは叶わなかった。

次いで翌一八九六年四月、インド政庁は日本の仏像をビルマ・レストハウスからも撤去せよという高圧的な命令を下す。この命令はセイロン・ビルマはもとより日本でも大きな反発を呼び、仏教ジャーナリズム各誌には過激な論説が飛び交った。このとき日本国内の過剰反応に憂慮したカルカッタ日本領事館が、事態の沈静化のため声明を出したほどだ。ちょうど日本が前年からの日清戦争に大勝利を収めた時期でもある。アジア仏教徒のあまりの憤激ぶりに驚いた植民地政府は、矛を収めて命令を取り消す。こぶしを振り上げた日本仏教徒にとっては、いささか拍子抜けの結末となった*13。

日印のかすがいだった阿弥陀像

一八九一(明治二十四)年に始まり、ダルマパーラ来日を挟んだ前後数年間、ブッダガヤ問題は幾度にもわたって日本仏教界を賑わせた。鎌倉時代作の阿弥陀如来像は、仏教国日本の関心をインド仏教復興運動に引きつけるかすがいの役割を、良くも悪くも果たしていたのだ。ダルマパーラ自身、仏教を奉じる世界唯一の近代国家であった日本を頼みとし、折に触れ〝日本の仏像〟を持ち出すことでブッダガヤ問題を打開しようという目論見を持っていたはずだ。宗教復興運動が民族意識の目覚めに繋がりつつあったインドの地において、日本の仏像はブッダガヤの「闘いの嵐の中心」として単なる信仰のシンボル以上の政治的な意味あいを持ち続けた*14。

しかしダルマパーラは希代の扇動家プロパガンディストではあったとしても、決して政治家の資質は持ち合わせていなかった。ダルマパーラの過激な運動はアジア仏教徒や一部ベンガル知識人の同情をかち得た一方、神権領主マハンタをはじめとするヒンドゥー教保守派の態度をますます硬化させた。セイロンで仏教復興を手がけつつも、インドの諸宗教に八方美人的な態度を取ってきたオルコット大佐(彼は一流の政治家である)は、次第に先鋭化する愛弟子、ダルマパーラの仏教原理主義を苦々しく感じるようになった。

薄れていった興奮

肝心かなめの大菩提寺の買取交渉が芳しい結果をもたらさず推移するなか、日本でのブッダカヤ問題に対する関心も徐々に薄れていった。前章でも述べたとおり、極東仏教徒の護教精神は「遠く離れたインドでの宗教間のメンツもかかった一進一退の政治的駆け引き」に耐えられなかったのである。くだんの阿弥陀仏は数年間ビルマ・レストハウスに残置されたのち、大菩提寺への帰還(?)を果たせぬままブッダガヤを去った。しばし修羅の波間に漂ったブッダの象徴は、瞬く間に忘却の海へと沈んでいった。

くだんの仏像は現在、カルカッタ大菩提会の階上にある「ダルマラージカ寺院」の仏壇奥にひっそりと安置されている。十年ほど前、インド旅行のさなかそこを訪うた。ダルマパーラによって建立されたカルカッタでは由緒ある仏教寺院とはいえ、頻繁に参拝者が訪れるわけでもなく、いつもは施錠されガランとした寂しい空間であった。来日経験のある僧侶が「マハント(マハンタ)にやられた傷が残ってますよ」と指さした先には、新たに金色に塗装し直された、日本の古美術マニアが見たら卒倒しそうな阿弥陀仏の御姿が。感慨とも落胆ともつかぬ複雑な気分がしたものだ。

日本から送られた阿弥陀如来坐像。現在はカルカッタのダルマラージカ寺院(インド大菩提会本部)に安置されている

参拝のついでに、大菩提会の図書室で『大菩提雑誌(The Maha Bodhi Journal)』バックナンバーをしばし閲覧させてもらった。ダルマパーラが精魂傾けた紙つぶての束は、厳重に鍵をかけられたスティール棚のなかで虫食いだらけに朽ち果てていた。巨大な虫食い穴の向こうには、カルカッタの雑踏が見えた。諸行無常。

カリスマの誕生

二十世紀を間近に控えた数年間、ブッダガヤをめぐって繰り広げられた騒動はダルマパーラと日本仏教の関係の密接さという点ではひとつのピークだったかもしれぬ。そして何よりこの数年間は、ダルマパーラその人にとっても重大な転機だった。ブッダガヤ大菩提会の設立、シカゴ万国宗教会議での鮮烈な「デビュー」、そしてマハンタとの抗争を通じて、ダルマパーラはインド圏の仏教復興運動そのものを体現する人格へと成長を遂げていた。彼は後年、次のように回想している。

(当時)私は積極的に仏教運動家として認知されてはいたが、いまだに仏教学生(在家修行者)の白いローブを身につけていた。しかし一八九五年の十月に、私は黄色のローブを身にまとった。私はひとりの『アナガーリカ』となったのだ。

*15

「アナガーリカ」とは本来、出家者を意味する。しかし彼は正式な得度の儀式を受けず、黒い巻き毛をたたえたまま、僧侶の衣装である黄衣をまとった。生涯妻を娶らず、禁欲と瞑想に明け暮れながらも鋭い舌鋒と行動力をもって全世界を駆けめぐった孤独なミッショナリー。ダルマパーラの「異形」ともいえる姿は、故国スリランカの旧態依然とした伝統仏教に対するプロテストであり、仏教復興を通じてアジアの連帯と近代的な再生を目指した男の思想と矜持を、身をもって表す象徴でもあった*16。

十九世紀末、近代アジア史の舞台に召喚されたアナガーリカ・ダルマパーラという名のカリスマ。ようやく自己を確立した「ランカーの獅子」と仏教国日本の来歴を辿る旅路も、道半ばに至ったところだ。


註釈

*12 その辺の事情を詳しく知りたい方は、『神秘主義への扉 〜現代オカルティズムはどこから来たのか〜』ピーター・ワシントン著、白幡節子/門田俊夫訳、中央公論新社、一九九九年を参照のこと。

*13 『仏教』第一一五〜一一七号、一八九六年を参照のこと。

*14 一八九三(明治二十六)年のシカゴ万国宗教大会における日本仏教代表への評価、翌一八九四(明治二十七)年から一八九五(明治二十八)年にかけての日清戦争を目のあたりにして、日本が仏教を旗印にヨーロッパの覇権を脅かすのではないかという不安を表明する「黄禍論」の論客も出てきていた。ロシア人のブルンホーファーは、『日中韓三国同盟 仏教による世界宣伝』という論文のなかで、「つまり仏教は、いまや世界権力になりつつあるのである。そして、もし日本が仏教の国々をひとつの宗教政治同盟にまとめあげでもしたら、ヨーロッパのキリスト教世界にとってこれまで夢想だにしなかった危険が押し寄せてくることになろう。なぜなら仏教国家が一致団結して宗教政策を推し進めたなら、まず第一に、ヨーロッパ人の東アジアにおけるキリスト教伝道は崩壊するであろう。……また次のようなこともないとはいえない。つまり、これまでキリスト教宣教師を仏教国に派遣してきた見返りとして、ヨーロッパ世界もこれからは、仏教使節を受け入れなければならないなどと、日中韓三国同盟あたりがいいださないとも限らない」と懸念を述べている。(『黄禍論とは何か』ハインツ・ゴルヴィツァー、草思社、一九九九年、一一七頁)

*15 〝Return to Righteousness〟P.690

*16 澁谷利雄氏はダルマパーラの異形性が意味するものをこう指摘する。「在家と出家を厳しく分ける南方仏教の伝統からすれば、在家の黄衣着用は冒涜的な行為であろう。ところがこの逸脱は非難されるどころか、民衆の支持を得たのである。それは植民地的抑圧からの解放と近代化を求める風潮のなかで、カリスマ性を発揮したからにほかならない。聖俗混合の姿、独身、遊行性などの両義性とシンハラ語と英語の使用、西洋的教養と東洋的教養、科学技術と仏教の強調とが結合して、絶大な人気を獲得させたと考える。彼が「ランカのライオン」と呼ばれる英雄となったのは、そのような両義的位置と深くかかわっているにちがいない。」(「スリランカの仏教復興運動と日本 アナガリカ・ダルマパーラの思想の分析を中心にして」『南アジアの民族運動と日本』長崎暢子編、アジア経済研究所、一九八〇年三月に収録)

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