カメラ・オブスクラ以来の、美術史の技術による切断

それが今。

私は美術家として新しい技術としての画像生成AIに誠実に対してきているが(もうすぐ1年になる)、体感として加速度的にまあ大変になってきていると実感。知力というより(それは私はアトリエでの絵画制作と同じで平常運転ですむ)専ら体力がより必要になるという。危機というより、面白がっているが。

現代美術は、もう終わったんでしょう。明らかに。

この切断の意識のみが大事ですね。

カメラ・オブスクラの登場には、フェルメールではなく、レオナルド・ダ・ヴィンチが主に重要な対応をしたんですね。

レオナルドが、カメラ・オブスクラを使いながら、1作品作るのにおよそどれぐらいの時間を必要としたのか、今私は知りたいところ。例えば『受胎告知』とかで。

[追記]

結局、かつて美術史を切断したのは、よく言われる「写真」の歴史上の登場ではなく、それ以前の「カメラ・オブスクラ 」を使用し油彩画を完成させたレオナルド・ダ・ヴィンチ個人ということになる。

私は以前から、美術史のトラウマの核は「写真」ではなく「油絵の具」ではと、想定し語っていたが(数年余前)、それとも合っている。

W. ベンヤミンは何も分かっていなかったね。

それは、多くはレオナルドを直視できないわなと。

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