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小ネタ#12「美術系予備校生、ロッテ日本一の優勝パレードを上から見下ろす」

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1974年は・・こちらにとってはただの浪人生の年だったのが、プロ野球ファンにとってはロッテが日本一になった記憶に残る年だっただろう・・

当時、予備校なのに、なぜか文化祭というイベントがあったようなおぼえがある。学生たちがそれぞれの作品を展示するというだけの簡単なかたちだったかと思う。で、ちょうどその文化祭の準備をしているときに、巷ではロッテが中日ドラゴンズに勝ち優勝したのだった。

新美は新宿大通りに面したビルの上階のほうにあった。優勝パレードが新宿大通りを通過するという話を聞きつけ、有志が「紙吹雪を教室の窓からばら撒こう!」というので、デザイン科総出で紙を切り刻んで(紙はあるのだ)ビルの下をオープンカーが通過した際にどっさり撒いたのであった。あとで事務局から大目玉。

その際に飛んだ噂というのが、オープンカーに乗った金田監督が「チョコを道路にバラ撒きながら新宿大通りを進んでくる」というものだった。ロッテだからね。
もちろん「デマ」だった(クラスの何人かは1階の路上で待機していたらしい)。

さて、新美には油絵・日本画・デザインと専攻科があり、各科で複数のクラスに分かれていて、学生の多かったデザイン科は確か3つくらいあったかと思う。講師の名前でそれぞれが「〇〇組」と呼ばれていて、あたしはコバヤシ組だった。コバヤシせんせいは芸大の講師だったと思う。当時の美術系予備校で、新美は後発ながら東京芸大デザイン科の受験に特化しており合格率も高かったのだ。

で、そのコバヤシせんせいの格好はまさにヒッピーで、髪の毛はロン毛のちりちりパーマ(アフロほどではない)。最初に目にした際は、田舎から出てきたばかりの少女に「都会はこわい(得体の知れない人間が多い)」と思わせるのにじゅうぶんな迫力があった。

そして手にはいつも長い棒を持っていて、その棒で壁面に並べられた作品の評価を棒で指しながら行うのだった。うわっ、忘れていたはずなのに・・目に浮かぶ・・

そうそう、相方は現役で美大に合格したが、入学してからもう一度芸大を受験するため夏休みに予備校に通っていた。同じく中央線の阿佐ヶ谷にある予備校だった。教わった講師がフランス帰りとかで「紫色」のことを「プープル」と発音したそうで、相方はいつもそのせんせいを「プルプルせんせ」と呼んでいた。

当時の新美のデザイン専攻の講師は、ほぼ東京芸大の助手で固められ、そのトップがコバヤシせんせいだったわけ。受験する先のいわば身内がセンセと呼ばれ指導しているのだから、いろいろ優遇されることもありなん???
(このシリーズの終盤でバラしますが、それで合格できるわけでもありませぬ)

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