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【時事考察】三大欲求(食欲・性欲・睡眠欲)という根拠のない幻想が事実であるかのように語られている問題

 テレビで、三大欲求の中でどれが一番強いか話している場面を見た。さも当たり前にように、食欲・性欲・睡眠欲があるかのように語られていた。「食欲は我慢できるけれど、睡眠欲はどうしようもないなぁ」とか。「うちの旦那にはたぶん性欲がないんです」とか。

 なぜか、日本では三大欲求という考え方が異常に広まっている。ただ、その根拠を把握している人はあまりいない。

 結論から先に言うとわたしは三大欲求を疑っている。端的にそれは幻想であると思っている。かつ、幻想であると三大欲求が事実であるかのように語られることで、多くの問題が生じているように感じている。

 そもそも三大欲求とはなんなのか。もとを辿ると欲求のピラミッドで知られるマズローの自己実現理論にぶつかる。

 具体的には、人間の欲求を下から順に「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」の五つの階層に分けるという内容であり、その中でも根源的な「生理的欲求」は生存に必要な欲求とされ、主に食欲・性欲・睡眠欲が例として挙げられている。要するに、ここから三大欲求が生まれた。二十世紀半ばのことである。意外とその歴史は浅い。

 その上、これをどこまで信用していいのか。けっこう怪しいところも注意が必要。

 マズローの自己実現理論はあくまで仮説であり、このように人間の心理を分析できるのではないかというアイディアに過ぎなかった。1960〜1970年代にかけて、それが正しいか様々な検証が行われた。残念ながら、正当性が認められることはなかった。

 つまり、学問の世界はマズローの自己実現理論を否定したのである。

 このとき、マズローは既存の学会と距離をとり、LSDを用いてトラウマ治療を行なっていたスタニスラフ・グロフとトランスパーソナル心理学会を設立する。これはその名の通り、人間として超越することを目指すものであり、学問というよりはスピリチュアルな集まりだった。

 やがて、マズローの自己実現理論は自己啓発の世界で歓迎されるようになる。特に、五つの階層にわかれた人間の欲求をピラミッド状に並べ、「自己実現の欲求」を頂点に配置した図は重宝された。いまでも保健体育や倫理の教科書に載っていたりする。

 なお、有名なピラミッドの図はマズローが作ったものではない。最初は広報担当がまとめたもので、「自己実現」の定義を恣意的に変えられるため、様々なセミナーで都合よく使われ続けてきただけなのだ。

 健康セミナーであれば元気になること。ビジネスセミナーであれば好きにお金を使えること。スポーツクラブなら優勝することだし、予備校なら有名大学に合格することが「自己実現」となる。

 要するに、「夢を叶える」という曖昧な目標をロジカルに支える理屈として、「自己実現」は便利だった。

 たしかに、マズローの欲求のピラミッドはわかりやすい。動物的な欲求は我慢して、努力に努力を重ねて、夢を叶えることこそ人間の幸せであるというストーリーが明確に示されている。

 だが、それは人間がそういう生き物であるということではなく、マズローが人間はそういう生き物であってほしいと願っただけの理想論。むしろ、事実と違うからこそ、そういう生き方に憧れていた可能性すらあるのだ。

 ひょっとしたら、これは「健全な精神は健全な肉体に宿る」の誤解と同じかもしれない。

 出典元であるユウェナリスの『風刺詩集』を読むと、この有名な言葉は「人は神に対して『健やかな肉体に健やかな精神が宿る』ように祈るべきだ」の一部が間違って伝わったものであると言われている。

 きっと、体力自慢の連中が素行の悪い振る舞いばかりしている現実を批判するため、ユウェナリスは逆説的な詩を書いたのだろう。

 いずれにせよ、マズローの自己実現理論は人間のあり方を説明しているものとは言えないはずだ。してみれば、それを基にした三大欲求という考え方に根拠があるとは決して言えない。むしろ、三大欲求があることにしたいという目論見でしかないのでは?

 だいたい、食欲・性欲・睡眠欲って、考えてみたらめちゃくちゃだ。

 お腹が空いてなにかを食べることは欲望じゃない。必要なエネルギーを補給しているだけなのだから。もし、コントロールできないほどに食べ過ぎているから、それは依存症の可能性が高い。睡眠も同じ。眠くなるのは当然。朝、起きれなかったとしたら、自律神経に異変があるのかも。

 とはいえ、食欲と睡眠欲なんてどうでもいい。三大欲求の話をするとき、この二つは単なるきっかけ。ほとんどの場合、性欲が強い、あるいは性欲が弱いと話すため、人は三大欲求を持ち出してくる。まるで性欲というものが当たり前のように存在しているかのように。

 冷静になってみると、食事と睡眠という生命を維持する上で欠かせない行為に対し、性欲はあまりにも重要度が低い。この違和感にこそ、三大欲求という幻想の危険が潜んでいる。というのも、性欲が生きるために必要なものであると示そうとする詭弁が隠れているのだ。

 性欲なんてなくても生きていける。子孫を残すために必要なんだとしたら、子どもを産まない人間や産めない人間は生きていけないことになるのか? いいや、そんなわけない。そんなわけがあってたまるか。

 セックスは妊娠の手段ではあるけれど、妊娠が目的ではない。むしろ、コミュニケーションの延長線で捉えるべき行為であり、お互いに望む形で行われたとしたら、それは承認し合うところに目的があるのではなかろうか。

 故に、相手が望まないとき、セックスは成り立たない。無理やり従わせるのは強制であり、相手の自由を奪うことであり、端的に言って「支配」である。

 愛があっても、好きであっても、互いに承認し合っていないのであれば、それは性加害である。逆に、愛がなくても、憎んでいても、互いに承認し合っているなら問題はない。恋人同士だろうと、婚姻関係にあろうと、性加害は発生し得る。

 だから、セックスしたいと望むとき、人は自分が承認されることを求めているのではないかとわたしは思う。そして、この文脈で性加害について考えると、その動機は性欲と関係のないところにあると見えてくる。

「性欲が抑えられずやってしまった」という言い訳を聞くことがある。まったくもってふざけている。他人を殴った犯人が「殴る欲を抑えられず」と説明したとして、いったい誰が納得できる?

 怒りに任せて殴ったのかもしれない。殴る以外の表現手段を持っていないから殴ったのかもしれない。相手の気持ちを折るために殴ったのかもしれない。理由は様々あるけれど、お前の中の未熟さや狡猾さが殴るという結果を招いたわけで、「殴る欲」なんて都合のいい不随意運動が起きたりしない。

 同じことが性欲にも言える。

 痴漢をするのは性欲を我慢できないからではなくて、自分が触っても抵抗しない他人を探し求めているからだろう。相手を騙して性行為に及ぼうとするのも、性欲が我慢できないからではなくて、自分が拒否される可能性を少なくするためだろう。そうじゃなければ、弱者を狙ったりしないだろう。

 わたしは性欲という言葉が嫌いだ。

 自然と湧き上がってくるものと錯覚させるから。性欲があるから仕方ないと謎の了解がなされてしまうから。性欲が関わった途端、シンプルなはずの加害者と被害者の関係がなぜか複雑に解釈されてしまうから。

 加害の原因が性欲にある限り、加害者は反省することも、更生することも、同じことを繰り返さないために努力することもないだろう。

「あのときは性欲が暴走し、理性も吹き飛んでいたんです。いまはいたって普通です。大丈夫です」

 そんなアホな!

 でも、悔しいことに、そんなアホな話しを世の中は長年受け入れてきた。

 一度、性加害からも性欲を切り離し、「支配」の問題として捉え直してみるといい。そうすれば、そのグロテスクさがはっきりと浮かび上がってくる。

 モテるためのテクニックだったり、ヤルための方法だったり、ナンパ術だったり、巷には様々な指南があふれているが、どれも弱者を追い込んで、断りにくい状況を作っているだけ。おぞましい「支配」でしかない。

 断れないセックスはセックスじゃない。別れられない恋愛は恋愛じゃない。NOが言えないとしたら、それはもう「支配」なのである。

 性欲という考え方が存在する限り、性加害の動機は性欲にあると誤解され、根底にある他者を「支配」しようとする残酷さが霞んでしまう。

 この一点を理由に、わたしは性欲という言葉を嫌う。性欲に信憑性を与える三大欲求という幻想を嫌う。

 そもそも「欲」という概念自体、責任から逃れようと欲する中で、人間の弱さが作り出した真っ赤な嘘に過ぎないのかも。

 だったら、そんなもの、一刻も早く吹き飛ばしてしまおうじゃないか。




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