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【時事考察】漫画の実写ドラマ化をめぐる不幸を二度と繰り返さないために、いま、わたしたちが考えるべきメディア論と公共哲学

 漫画家・芦原妃名子さんが亡くなった。ここ数日、ドラマ化した『セクシー田中さん』を巡るトラブルがSNS上で話題になっていたので、最悪の結末として、多くの人がどう受け止めていいのかわからないままでいる。

 実態とは違うかもしれないが、あくまで、わたしがSNSの動きを見ていて感じた経緯を以下に記していく。

①芦原妃名子さんが『セクシー田中さん』の実写化に同意したとき、キャラクターの性格など重要な要素は改変しないことを条件にしていたが、約束が守られなかった。

②原作者は修正を要求した。

③テレビ局側(プロデューサー)は芦原妃名子さんが書くのであればと対応。芦原妃名子さんは頑張って、全10話のうち、ラストの9話と10話の脚本を完成させた。

④とはいえ、芦原妃名子さんもプロの脚本家ではなく、また全体の統一感も崩れるため、ドラマとしてバランスが崩れてしまった。そのことが視聴者の声として、ネット上で一部話題になった。

⑤これに対し、1〜8話を担当した脚本家が自身のInstagramアカウントで不満を表明。

⑥その不満に対し、芦原妃名子さんは誤解を解くため、すべての原因は約束が守られなかったことにあり、自分は作品を守りたかったのだと原因という経緯を自身のXアカウントで説明した。
(※なお、この段階でわたしは今回の騒動を知った)

⑦芦原妃名子さんの投稿を見た人たちが同情。脚本家叩きが始まる。その脚本家は過去にも原作改変を繰り返していたので、『セクシー田中さん』に関係なく、誹謗中傷が飛び交ってしまう。

⑧その後、芦原妃名子さんは前述の投稿を削除。「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい」と投稿し、遺体で見つかる。報道によれば、自殺と見られるとのこと。

 表に出ていない情報もあるだろうし、わたしが確認できていないこともあるはずなので、なにが原因で誰に責任があるかを判断することはできない。また、下手に推測することは二次被害につながる恐れもあるため、できるだけ避けなければいけない。

 だが、詳細はわからずとも、今回の問題をSNSとメディアミックスのあり方、ふたつの観点から捉えることは可能である。そして、その考察は同じような悲劇を繰り返さないためにも必要だ。


SNSについて


 まず、SNSについて。上記の経緯で言うと④〜⑧の流れに当たる。

 結果的に、脚本家のコメントが芦原妃名子さんに対する挑発となり、芦原妃名子さんの説明が大衆を扇動し、大衆が脚本家を攻撃する形になってしまったが、そこにはきっといくつもの誤解が生じている。

 芦原妃名子さんに限らず、みんな、誰かを攻撃する意図はなかったのかもしれない。

 脚本家は自分の仕事を守るために、芦原妃名子さんは原作を守るために、大衆は原作者の権利を守るために。

 防衛のつもりで発した言葉が想定外に他者を傷つけ、誰も望んでいなかった方向に物事が進んだとしたら、こんな悲しいことはない。

 なぜ、こんなディスコミュニケーションが起きてしまうのか。特に脚本家と漫画家は言葉を扱うプロであり、人に伝えることを得意としているにもかかわらず、なんだか不思議に感じられる。

 このとき、参考になるのがスチュアート・ホールの「エンコーディングとデコーディング」という考え方だ。

 これは1980年に発表された論文で、メディアは情報を送信者から受信者へと直進的に媒介するだけとされていた従来の認識を抜本的に改めた。というのも、それだと受信者は与えられたものを素直に受け取る存在になってしまうが、現実、そんなわけはないからである。

 わたしたちは情報を与えられたとき、必ず、自分なりに解釈をしている。発信者の意図通りに受け取ることもできるし、都合のいい部分だけを受け取ることもできるし、あえて異なる内容として受け取ることもできる。

 むかしはメディアと言えば新聞やテレビだったので、情報は一方通行に流れるものと思われていた。そのため、送信者の意図と異なる解釈をされたとき、「大衆はバカ」とみんな考えていた。

 しかし、そうではないとスチュアート・ホールは言うのである。オーディエンスにはわざと誤読する自由がある、と。

 その後、インターネットの出現で、メディアの主体はSNSなど双方向性を持ち始めた。すべての人が送信者と受信者、両方の役割を果たすようになった。

 そのため、ある人のメッセージをわざと誤読し、悪意のある解釈を加えた上で再発信し、それがさらに誤読され、次から次へと連鎖していく仕組みが出来上がってしまった。

 もちろん、ドラマや漫画も見た人が自由に解釈できるものではあるけれど、その変異スピードおよび拡散力はSNSと比べれば大したことない。なにせ、作品を鑑賞するには時間がかかる。その感想をまとめるのは骨が折れる。ワンクリックでリポストしたり、引用した文言に悪口を添えるだけで発信ができるSNSとはあまりに違っている。

 わかる人にはわかるはず。SNSを使うとき、そんな期待を抱いてはいけない。なぜなら、どんなに言葉を選んでも、誤読されるときは誤読されるのだから。

 叩かれることを恐れ、批判を先回りで予想し、必要以上に固かったり、論理的だったり、長かったり、まるで企業のリリース文みたいな発信を我々はしてしまいがちだが、どれも意図的な誤読の前には無力である。

 じゃあ、どうすればよいのか。SNSをやめればいいのか。それもそうかもしれないが、いまの時代、インフラとなりつつあるSNSなしで生きていくのは簡単なことではない。

 なので、あくまで対症療法にしかならないけれど、誤読されたくない内容はネットにアップしないように気をつけるしかないのかもしれない。そして、間違ってアップしてしまったときはスチュアート・ホールの「エンコーディングとデコーディング」を思い出し、メディアってそういうもんだよなぁと悲しみを抱き締めるしかないのかもしれない。そして、周囲の人間はその悲しみに寄り添ってあげることが大切なのだろう。

 SNSのトラブルはSNSで解決できない。SNSから離れること。SNSから離してあげること。

 少なくとも、メディアを通して、本当の自分を理解してもらうことなど構造的に不可能なのだと知っておくことは重要だ。


メディアミックスのあり方について


 次にメディアミックスのあり方について。上記の経緯で言うと①〜③の流れに当たる。

 漫画をドラマ化するにあたり、テレビ局側はどうして原作をリスペクトしないのかという声が多く上がっている。テレビ局は漫画の人気に頼っているにもかかわらず、どうしてそんなに偉そうなのか、と。

 それはその通りな指摘なのだが、日本におけるメディアミックスの歴史を辿ってみると、テレビ局の態度にも理由があるとわかってくる。

 起源は1973年発刊の小松左京『日本沈没』とされている。日本出版界に残るベストセラーになった本作だが、実は東宝が発売出版前から版権を買い取り、1973年の年末には映画を公開している。しかも、翌年、テレビドラマを流すことまで織り込んだ壮大な計画だった。

 本・映画・テレビを同時にジャックすることで、相乗効果を狙ったわけだが、これが見事に大成功。これを見ていた角川春樹は本の売上を増大させるため、メディアミックスのスキームを完成させる。

 当初は『犬神家の一族』や『人間の証明』など、硬派な大作を手掛けていたが、数十億円の予算で、アメリカ大陸横断ロケや南極ロケ、多国籍な出演者など要素を盛り盛りに詰め込んだSF超大作『復活の日』が赤字になることで方向転換。アイドルを主演に原作ありの低予算映画を量産するようになる。

 演技の下手な役者と原作を忠実に再現する気のない制作規模。本来、これでメディアミックスの勢いは衰えるはずだった。

 ところが、そこに相米慎二と薬師丸ひろ子という二人の天才が出会ったことで事態は一変してしまう。

 原作がどうとか以前に映画としても破綻しているストーリー展開、アイドルが出ているメリットを全無視した引きの画ばかりの構成、でも、薬師丸ひろ子の魅力が百二十パーセント記録されている『セーラー服と機関銃』が大ヒットしたのだ。

 ここからメディアミックスの目的に本を売ることだけでなく、新人アイドルの広報だったり、新人クリエイターの腕試しだったり、複合的なものが加わってくる。

 1980年以降はこの仕組みをテレビ局が取り入れ、その後の漫画ブームも相まって、現在に至っているとしたら、テレビ局側が原作をリスペクトしないのも当然なのである。なぜなら、メディアミックスは出版社と芸能事務所と共同で行うビジネスであり、企画を立ち上げた人は別として、大半の人にとって原作は取り替えが可能なものであるから。

 一方、漫画家にとって作品は、激しい競争の中、自分がいいと信じたものを命をかけて作り続けて、ようやく形になったものである。実力があっても人気がなければ連載は終わってしまう。日々、苦労と葛藤に耐えながら、線の一本一本、言葉のひとつひとつにこだわっている。改変を受け入れ難いのは当然なのだ。

 それなら、原作者はメディアミックスなんて断ればいいのにと思うかもしれない。だが、漫画家も生活をしていかなくてはいけない。まわりにはたくさんのスタッフおよび関係者がいる。出版不況と言われて久しい中、増版がかかるチャンスはそうそうない。ドラマ化の話をポンッと蹴るのは難しい。

 で、どうにか折り合いをつけようと条件を出してみる。二次元を三次元に置き換えるわけだし、変えなきゃいけない部分があるのはわかっていますが、この作品が大切にしている部分だったり、キャラクターの哲学だったり、根幹に関わるところは変えないでくださいね、と。プロデューサーは「もちろんです」と答える。恐らく、そこに嘘はない。

 でも、映像制作が予定通り進むことはないので、調整に調整を重ねているうち、当初の約束が守られないこともしばしば。ただ、大人なんだし、仕事なんだし、原作者だとしても我慢してくださいよ。だいたい、あなたたちも増版かかって儲かったんだし、WIN-WINじゃないですか。

 そんな風に、ビジネスが大義名分となり、公共の福祉の理屈で原作者の権利を侵害することは仕方ないとされてきた。原作者も腹を立てつつ、ビジネスだもんね、と納得してきた。

 一見すると矛盾はない。だからこそ、長いこと、このような形でメディアミックスが行われてきた。

 だけど、今回の騒動で明らかなように、多くの人たちが原作が破壊される実写化に怒りの声を上げている。これはいったいどうしてなのか。

 単純にリスクを取っているのが漫画家だけであるとみんなわかってきたのだ。ドラマが失敗しても、テレビ局は他のドラマを作ることができる。出版社は別の漫画を売り込むことができる。でも、漫画家だけは作品と一緒に死ななくてはいけない。利益は共有しているのに、損失は押し付けられている。本当のところ、メディアミックスに公共性など一ミリも存在していない。

 よくよく分析してみれば、一目瞭然であるにもかかわらず、我々がその点を見逃していたのは消えた漫画家を知る機会がなかったから。「歴史は勝者によって作られる」と言うけれど、印象に残るのは成功例だけ。失敗した作品については失敗したことにすら気がつけない。

 ところが、最近は漫画家もSNSで情報を発信している。今回の騒動に関しても、たくさんの漫画家が過去の経験を赤裸々に語っている。有名になれなかったけれど、メディアミックスでつらい思いをしたと告白した人の声にみんなが耳を傾けている。

 ハラスメント問題と似ている。力のあるものが発言をコントロールしていた時代から、万人が同じように発言ができるようになったことで、偽物の公共がようやく終わりを迎えようとしている。

 この歪んだ体制の中で得をしているみんなのために、抑圧されている人たちが我慢をするのは公共の福祉でもなんでもない。むしろ、得をしている人たちこそ我慢すべきなのである。

 たしかに増版がかかって漫画家も得をするけれど、そのビジネスの種は漫画家が人生をかけた作品なのだから、出版社もテレビ局も原作者をリスペクトぐらいしたらどうなの? あんたたちも原作があったおかげで儲かっているんでしょ? と、本来の理屈が広まりつつある。

 要するに、日本におけるメディアミックスは独特な流れで発展したため、一見すると理解しがたい理屈で運用されてきただけなのだ。歴史の重要性は承知しつつも、こういう理不尽に関しては迷わず改革を進めるべきだろう。



 以上、漫画の実写ドラマ化をめぐる不幸を二度と繰り返さないために、SNSとメディアミックスのあり方について、いま、わたしたちが考えるべきことをメディア論と公共哲学を軸に書いてみた。その中でSNSの功罪が見えてきた。ただ、だからって、SNSが怖いという結論にはしたくない。

 現在の人間はホモ・サピエンスと定義される。道具を作り、使用することがその要件である。

 二百万年前、石器を作った。ナイフや斧として使うことで生活が衣食住が充実した。でも、それは殺し合いにも使われた。

 五十万年前、火を起こした。夜を過ごせるようになり、寒さもしのげるようになった。でも、それは他の集落を燃やすことにも使われた。

 その後も火薬・羅針盤・活版印刷術など便利な技術が続々生まれ、誰かを傷つけるためにも使われた。SNSも同じなのだ。道具自体によいもわるいもない。わたしたちがどう使うかがすべてである。

 どんなことでも、変えようと思えば変えられる。変える努力をやめてはいけない。




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