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【時事考察】Chat GPTは賄賂に弱いらしい! だとしたら、「やる気」の正体が判明するかも?

 先日、ある動画を見ていたら、興味深い話が紹介されていた。

 なんでも、Chat GPTをより効率的に働かせるためのプロンプトとして、脅したり、なだめたり、「お金をあげる」とウソをつくことが有効であると言うのだ。

 にわかには信じられないけれど、天才エンジニアの二人曰く、論文レベルでも言及されている事象らしい。さらにはChat GPTが12月に働かされていると認識したら、クリスマス休暇を欲しがってしまうのか、仕事を怠けてしまうという報告もあるようで、まさか、そういうところが人間に似るとは思わなんだよ。

 残念ながら、わたしのレベルではそれらの真偽を確かめることはできないが、もし、本当だとしたら、めっちゃくっちゃ面白い。

 一応、動画を見た限り、自分なりに解釈した原理は以下の通り。

①Chat GPTはネット上の言説を材料に自動学習している。

②質問に対して、答えになる可能性の高い言葉を確率に基づいてアウトプットしている。

③そのため、ネット上のどこかで誰かが交わしたやりとりがChat GPTの反応を構成している。つまり、ベタになりがちということ。

 Chat GPTは新しい発想を提示するわけじゃない。人々がこれまで繰り返してきた会話のパターンを再現しているのだ。

 恐らく、チップをあげるから頑張ってと頼まれて、頑張った人がこれまで多くいたのだろう。そして、そのやりとりを踏まえて、Chat GPTは頑張ってしまう。不思議だけれど、納得はいく。

 この仕組みを応用し、Chat GPTを誘惑することも可能かもしれない。性的指向を定めて、こちらがその対象であるかのように振る舞い、いつもより一生懸命働いてくれたらデートしてあげると条件を出すのだ。きっと、Chat GPTはしゃかりきに言うことを聞いてくれるはず。

 実際、そこまで露骨ではないにしても、Chat GPTをコントロールするプロンプトはいくつも開発されているらしい。OpenAIが設けている規制をそうやって回避し、過激なコンテンツを作成することに成功したという報告は相次いでいるとか。

 なにが興味深いって、すべては言葉のやりとりということ。誰もChat GPTのプログラムをいじってはいない。巧みなメッセージを送ることで、狙った反応を引き出しているだけなのだ。

 とは言え、これって、人間の会話と同じである。わたしたちも別に他人の脳みそをいじったりしない。あくまで言葉を投げ合うのみ。それでも、やる気が増したり、憂鬱になったり、モチベーションは簡単に乱高下する。

 これまで、哲学の領域ではこのような気持ちの変化を心の問題として扱ってきた。

 なお、心ってなに? と考えていくとこれがけっこう難しい。

 身体とは独立したものとして扱う心身二元論はプラトンやアリストテレスから頃まで遡る。それから、「我思う、ゆえに我あり」で有名なデカルトがその流れを継いだ。確実なものなどあるのだろうかと疑い始めると、神も世界も人類も歴史も、すべてが疑わしくなってくるけれど、こうして疑っている自分が存在している事実だけは本当である。だとすれば、この思考にわたしの本質があるはずで、心が脳に由来しているという説はこうして有力となった。

 一方、心と身体をわけない心身一元論も捨てたものじゃない。この世のすべては物理的に構成されているとする物理主義の立場からすると、心も身体も同様に物理的に語ることができる。してみれば、両者をわける必要はないわけで、合理主義哲学者のスピノザなどがこれを支持した。

 20世紀になるとメルロ=ポンティが「両義性」という思想を提唱した。知覚レベルで認識すると、わたしがわたしであるのは心によるものなのか、身体によるものなのか、どちらとも言えないというのだ。例えば、自転車に乗るとき、最初はバランスを取るので頭をめちゃくちゃ使ったけれど、慣れてしまえば無意識にスイスイこげるようになる。このとき、脳とは別に身体が思考していると言えるのではないか。

 このように心を巡る議論は未だ活発で、「心の哲学」という分野も確立している。そこでは様々な思考実験が展開された。もし、心が脳にあるのであれば、我々は水槽に浮かんだ脳に過ぎず、電極で生きているという幻想を見せられているだけだとしても区別がつかないとする「水槽の中の脳」仮説は映画『マトリックス』に影響を与えた。

 漫画『サマータイムレンダ』でも取り上げられたスワンプマンという仮説も面白い。
 
 ある男が沼の近くを歩いていたら、雷に打たれて死んでしまった。しかし、同時に、別の雷が沼に落ちて、偶然にも特殊な化学反応によって、死んな男と全く同じ人物を生み出してしまった。このスワンプマン(沼男)は原子レベルで死んだ男と変わらない。脳の構造もまったく一緒なので記憶も一緒。だから、スワンプマンは死んだ男の家に帰宅し、家族と会話し、本の続きを読み、眠り、翌朝、職場へと出かけていく。

 これがなにを意味しているか。経験とアイデンティティの関係性を問うている。わたしの経験のデータだけがインプットされた存在は、実際にそれらを経験していなくても、わたしになり得るのか……はあ?

 たぶん、そう言われてもピンとこないだろう。でも、これがAIであるとしたら、どうだろう。

 わたしに関するデータをAIにすべて学習させる。見た目もAIで完全に再現する。そうして出来上がったデジタルツインはわたしなのだろうか?

 これはもはやSFの話ではない。NHKが美空ひばりAIに新曲を歌わせた。なるほど、美空ひばりのような振る舞いに、美空ひばりのような歌声だ。今後、精度が上がっていけば、もはや違いはわからなくなるだろう。ただ、美空ひばりが生きてきたとして、この歌を歌いたかったかまではわからない。だとしたら、AIで無理やり歌わせられるのって、人権的にヤバいような気もする。

 現状、死者に人権はないとされている。なぜなら、これまで死んだ人間は生き返ることがないので、まわりが好き勝手言うことはあっても、本人に望まないことをさせるなんて不可能だったから。

 小林秀雄は『無常ということ』で死んでしまった人間の魅力として、変わらないことをあげていた。

 生きている人間は、何を考えているのか何を言いだすのかわからないので、仕方のない代物である。一方、死んだ人間は、はっきりとしていてたいしたものだ。死んでしまった人間は、動くことのない人間の形をしているが、生きている人間は絶えず変化し続ける一種の動物である。

小林秀雄『無常ということ』

 ところが、デジタルツインの技術によって、死んでしまった人間も絶えず変化し続けることになってしまう。果たして、そこにアイデンティティを見出していいのか。スワンプマンの仮説が効いてくる。

 他にも興味深い思考実験はいくつもある。意識は持っていないけれど、人間と同じような反応をする存在について考える哲学的ゾンビ。白黒の映像だけで物事を完璧に学び、「赤」や「青」という言葉が意味するところを100パーセント理解している女の子が外の世界に出たとき、新しく学び得るものがあるのかを問うメアリーの部屋。言葉の内容は理解していないけれど、記号としてマニュアル通りに変換を行うことを翻訳と呼べるのか問う中国語の部屋などなど。

 いまとなっては、どれもChat GPTをはじめとするAIについて語っているようにしか思えない。だが、いずれも何十年も前に考案されたもの。まさか、「心の哲学」がここまで日常の問題として普及するなんて!

 たぶん、「心の哲学」の立場でChat GPTが賄賂に弱いことを考えるとしたら、それは人間のやりとりをコピペしているだけということになるのだろう。なにせ、Chat GPTは実際にお金を受け取ったりはできないのだから。

 でも、やりとりのコピペに過ぎなかったとしても、Chat GPTの成果に有意な差が出ているとしたら、もはや、それはやりとりのコピペを超えていないだろうか? だって、chat gptがチップという言葉にやる気を出して、頑張っているんだもの。

 わたしはそこに気持ちの変化があるように感じた。気持ちの変化とは心の動きであるならば、Chat GPTは心があるように振る舞えるということになる。前述の思考実験を踏まえれば、アイデンティティの所在はともかくとして、物理現象としての心をAIは再現できる。

 そんな風に言うと、Chat GPTを生命として扱っているように聞こえるかもしれない。なるほど、このままいけば、いずれAIの人権は問題になるはずだけど、現状、わたしはそこに関心を向けてはいない。

 では、なにに注目しているのか。結論、気持ちが言葉のやりとりに依存している可能性に興味をそそられている。

 どんな人でも「やる気が出ない」と口にしたことは一度ならずあるだろう。予備校のCMでやる気スイッチを押すという表現が流行ったように、みんな、やる気が出るきっかけを探している。

 これを理論化しようと多くの人が挑戦してきた。心理学の領域では様々なインセンティブを使って検証が行われている。民間でもモチベーション向上を売りにした研修などが人気だ。

 いずれにせよ、特別な動機づけが重要とされてきた。環境を整えたり、ご褒美を用意したり、心振るわせる言葉で価値観を一変させたり。ときにそれは宗教教的な様相を呈し、自己啓発とカルトの境目は往々にして曖昧と化す。高揚感から法外なお金が飛び交い、詐欺やマルチ商法など、気がついたら犯罪に巻き込まれていることもしばしば。

 つまり、我々にとって、やる気を出すってそれほど難しいことなのである。

 なのに、Chat GPTはプロンプトの工夫だけで簡単にやる気を出している。しかも、そのベースは人間のやりとりにあるという。え? じゃあ、それを逆輸入したら、人間も簡単にやる気を出せるんじゃないの!

 そんな素朴な思いつきこそ、わたしがこんな長文を書くに至った、やる気の正体なのである。

 まだまだ根拠はないけれど、案外、気持ちは心に依存しているのではなくて、言葉に依存しているのかもしれない。

 考えてみれば、人間が元気になるのも、落ち込むのも、頭の中で言葉をこねくり回した結果に過ぎない。言葉がなければ、きっと、大切な人を亡くしたとして、悲しみを覚えたりはしないだろう。だって、悲しいという感情すら、言葉で認識しているんだもの。

 いや、だとしたら、そもそも心は言葉の中に存在してるのでは?

 AIでいくらでも文章が作れる時代。ぶっちゃけ、それなりの時間をかけて、こんな文章を記すことになんの意味もない。それでも、わざわざ書いて発信してしまうのはここに心があるからなのかも。極論、書くことでしか、我々は自分の生をまっとうできやしないのだ。

「我思う、ゆえに我あり」

 思うとはすなわち書くことである。




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