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エカテリーナの憂鬱

ロシア出身、美しいエカテリーナは今日もロンドン南部のオフィスでため息をついていた。彼女の体格は華奢そのものだが、その青い瞳には誰にも分からないような苦しみを乗り越えた末に身に付けた強さのようなものが感じられた。

エカテリーナと私はパーティーで出会った。とある英国法律事務所のアニバーサリーパーティーで、出席者はほとんど法曹資格者であった。私はそこに歌の仕事に行ったのである。参加者の中で目を引いたのが、弁護士、エカテリーナ。

そこに事務所のパートナーらしき男性が訪れ、エカテリーナに白い花を渡した。今日は事務所のアニバーサリーであるだけでなく、エカテリーナがこの事務所で働き始めてからちょうど5年を迎える日でもあるというのだ。パートナーが言った。

「このユリをエカテリーナに送ります。外見はフラジャイル、内面はストロング、そんなエカテリーナにお似合いだから。」

そうでなくとも花を見た瞬間から不機嫌だった彼女は、この台詞を聞いて一層顔色を悪くした。

歌のパフォーマンスを終えたあと、ほとんどの弁護士は私に目もくれなかった。私の歌は、彼らのビジネス・ディールの話を盛り立てるだけの花、つまり、そこにあればいいだけの存在なのである。しかし、エカテリーナはそこにいた。シベリアン・ハスキーのように、少し冷たくも美しく、なにより聡明な光を秘めた目で私に言った。

「とても綺麗な声だわ。あなたは日本人?」

私はしばらく自分が日本人であること、歌手としてロンドンで生活していること、たまに友人を自宅に招待して寿司パーティーを開くこと、などを話してから、気になっていたことを聞いた。

「どうしてお花を貰った時、嬉しそうじゃなかったんですか?」

彼女はこのように突っ込んだ質問にも関わらずまったく気にしていないという感じで答えてくれた。

「もううんざりなのよ、このオフィスに。私ね、実はあのパートナーに昇進について打診してみたの。でも、無理なんですって。その代わりにあの花で私の機嫌を取ろうってわけ。ううん、別にこの事務所に腹を立てているわけじゃないの。私は私自身に腹を立てているのよ。私の仕事、いいえ、人生全部に対する能力のなさについてね。毎朝思うの。エカテリーナ、どうして私は早起きできないの?仕事が嫌いなの?エカテリーナ、どうして私は出世していないの?エカテリーナ、私はどうして未だに一人なの?」

「確かに、ロンドンで生活するのは大変なことですよね・・・。」

私も大体同じようなフィーリングだったので、一般化はしたくないが、このような返しをした。それにしてもクールな外見からは想像できない一面を見せてくれた。一人称が自分の名前なところが、なんとも可愛いらしい。きっと事務所ではみな彼女のことを「ストロング」と思っているのだろう。しかし彼女だって一人の人間であるし、日々様々な戦いに挑んでいるのだ。それを本当は人々に悟ってほしいのかもしれない。でも、誰にも言えない。それがロンドンで国際弁護士として輝かしい舞台で活躍し、生きていくことの代償なのかもしれない。そのような複雑な想いが彼女から感じとることができた。

「なんかあなたには色々話過ぎてしまうわね。あなたはまだ若い、パッションを見失わないでね。」

パートナーがエカトリーナに渡した白いユリの花は、未だに包みを外されないまま、彼女の部屋の窓際に飾られているらしい。

ロンドンにおける私の憂鬱な生活をサポートして下さると、とてもありがたいです。よろしくお願いします。