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最後のカレー

夫の父は、96歳。
旧制の熊本薬学専門学校(現熊本大学薬学部)で学び、衛生兵として戦争へ赴いた。卒業を早めての出征だったという。
南方のスンバ島で抑留され、終戦を迎えてもしばらく帰ってこられなかったと、その頃の話をよく聞かされた。辛く過酷な体験を語るときはいつも最後に、ニコッと目を細めて「へへ」っと笑う。

熊本へ帰省すると必ず、義父の好物のカレーを作る。抑留時代の、イギリス兵にもらった本格的なカレーの味が忘れられないらしい。甘いものより辛口の、香辛料の効いたカレーを所望されるため、クミンやターメリックを多めに入れるととても喜ばれた。

だから今夜もわたしは、カレーを作ることにした。
嫁として、いつものように。

重たい雨が降るなかを、近くのスーパーへ買い出しに行ったら、道に迷い、随分時間がかかってしまったけれど、義父はわたしの帰りを辛抱強く待っていてくれた。

台所には、半年前に作ったときのクミンの小瓶が残っていた。ああダブってしまったなあと、さっき買った新しいものを隣に並べた瞬間、唐突に、そして猛烈に哀しくなった。

この台所でカレーを作るのは、たぶん今夜が最後だから。義父のために作るのは、きっと最後だから。

牛肉を切り、にんにくの皮を剥き始めたところで、夫の「父ちゃん!」という声が聞こえた。わたしはにんにくを握りしめたまま、部屋へ駆けつけた。義父は何かを言いかけ、しばらくどこかを見て、そして静かに息を引き取った。

できあがったカレーは、いつもより少し辛かったように思う。すいません、と、食卓に座る義兄たちの前で恐縮しつつ、小さくよそった一皿を線香の漂う場所へ。
「よかですよ。ハイ、頂きます」
いつもならそんなふうに言ってくれる、義父の優しい、へへっと笑う声を聞きたかった。

気づくと自分で、へへっと笑っていた。



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