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短編小説「なつをとめ」②

店から彼女の家までは思ったほど遠くはなかった。店がある商店街を通り抜けた先の、坂を登った閑静な住宅街にその家はあった。大きな門、3階建てのモダン建築の2階、3階部分には大きなガラス窓がはめ込まれ、この街の景色を一望できる。庭には美しい花々が咲き、きちんと剪定された緑が瑞々しく茂っていた。

チャイムを鳴らし、店名を名乗る。どうぞというスピーカーからの声とともに門が開く。僕は門を抜け玄関に辿り着き再度チャイムを鳴らした。今度ははーい、という声とともにガチャリとドアが開いた。声色から想像するよりも歳上の女性が出てきた。

「ご苦労様。突然だったのに、とても早く来てくださったのね。ありがとう。」

人懐こい笑顔でそう言いながら、彼女は珈琲豆とタルトを受け取った。その手にはめられた大きな赤い宝石をみて、わあ幾らくらいするんだろうなど下世話なことを考えた。お代は、と僕が言いかけると、彼女はそれを目で遮った。その少し茶色がかった深みのある瞳に、吸い込まれそうになって一瞬息を呑んだ。そして、電話のときと同じように申し訳なさそうなニュアンスを含めて彼女は続けた。

「あのね、こんなことを相談するのも忍びないんだけど…実はうちのコーヒーミルが動かなくなっちゃって。もし、もしお時間があればでいいんだけど、見てくださらないかしら」

少しの間ののち、いいですよ直せるかわかりませんが、と僕は早口で返事をした。幸いにも僕にはコーヒーミルを見る時間があったが、どう言葉を選んで返せばよいか逡巡してしまい、変な間ができてしまった。この変な間を僕は悔いた。コミュニケーションに難ありな人だと思われなかっただろうか。僕の些細な心配を他所に、彼女は安心した表情を浮かべ、ああよかった、ありがとうと言い、僕を家の中へ招き入れた。散らかっていてごめんなさいね、と時々振り返りながら彼女は廊下を進んでいく。いいえそんなことは、と事実を言いながら、僕は彼女のあとに続く。彼女の後ろ姿を見つめ、僕は彼女のプライベートを少しだけ想像する。誰かと住んでいるのだろうか、お子様が居るとしてももう大きそうだから、配偶者の方と二人暮らしだろうか。本当は、お客様のプライベートなことを詮索するようなことはしてはいけないのだが。僕の言葉を遮ったあの茶色がかった瞳を思い出しながら、僕は僕の好奇心と闘った。少なくとも、表には出さないように、気付かれないようにしなくては。

続く

ながいけまつこ

なつをとめ①
https://note.com/nagaike_spoon/n/n23bd5237c90d

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