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「男の子らしさ」から離れて

「男の子らしさ」について、ちょっとスケールの大きいところから。

1868年3月15日、明治政府は民衆の従うべきもの五箇条を書いた高札、五榜の掲示を立てました。

第一札 定

人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事

 とあるのですが、この五倫の中身は「君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」という孟子の儒教の教えから来ています。臣下は君主に忠義を尽くし、子は父母を敬い父母は子に慈愛をもって接し、夫婦はそれぞれ別の役割をし、年功序列を大切にし、友とは信じあい協力する、といったところです。明治政府はこの君主として、また日本という家族の父として天皇を掲げ、天皇中心の国家を作っていったと考えることもできるでしょう。そのような国家としての指針であったのです。

 明治時代、富国強兵殖産興業を掲げ欧米列強に迫ろうと産業革命がどんどん進んでいった時代。産業革命では機械工場・炭鉱の開発が進みました。そしてそれらを所有するものは資本家と呼ばれ大量の富を蓄積していきました。こうして蓄積した富は一般的に嫡子単独相続が行なわれていました。明確に自分の子だと分かる長男が大切だったのです。姦通罪というのをご存じでしょうか?1947年まで日本は、既婚の男性が未婚の女性と不倫するのは容認されても、既婚の女性が未婚の男性と不倫するのは明確に法律で罰則がありました。既婚の女性がそうして子を宿した時に、本当に自分の子であるか分からないことがそれほど困ったことであったのがうかがえます。

 また、尊属殺・尊属加重規定というのをご存じでしょうか。これは父母と同列以上の親等の血族を殺害すること・またそうした時に一般的な殺人より罪が重くなることです。1908年の明治刑法からずっとありました。1968年に父からの長年の性的虐待に耐えかねて父親を殺害した事件についてもこれが適応されました。1974年にはこれが違憲であるとされ判決は無効になり、1995年(なんと平成!)になってようやくこれが明確に刑法から消えました。

 長々と書きましたが、いかに長い間日本が親をそして特に父親を絶対視していたかが分かります。こうした考えのもと育った人たちが70代80代として生きていて、その子供世代が大学生である自分の親世代としてまだまだ社会を作っています。家父長制的考え、男尊女卑的な考えに端を発する性被害や家庭内暴力、選択的夫婦別姓制度がなかなか導入されない背景や、同性のパートナーをなかなか認めない背景なんかも元をたどるとこんなところにあるのかなと思ってなりません。

 さて!前置きが長くなりましたがここからは見出し画像の本

『これからの男の子たちへ 「男らしさ」から自由になるためのレッスン』(太田啓子)

について考えていこうと思います。まずは拙いながら大まかな内容を。

「男らしさ」の要素として①意気地なしはだめ、②大物感、③動じない強さ④ぶちのめせ、があげられる。こうした「男らしさ」が幼少期から様々な形で形成されてしまうがために男性の感情の言語化能力の不足、女性は弱い・劣っているというバイアスの形成が生じ、そしてこれらがまた男女対等な関係のためのコミュニケーション不足、はては性被害や家庭内暴力を生み出していく。日本の遅れた性教育の実情は性被害の深刻さを矮小化し、レイプモノAVのようなコンテンツの生成・AVそのものを参考にしてしまう誤った認識を助長させる。メディアや作品を通してもちょっとおかしくエッチなシーンを入れることが性被害の矮小化につながっていると警鐘を鳴らす。今の性差別社会の中ではこうした事実に男性側が積極的に気が付き、声を上げていけるような。本文の言い方に沿うなら「特権を自覚し、それを正しく使うこと」ができるように、そして男も弱くていいということを様々な視点を具体的なエピソードを交えて提供している。

 ほんtttっとうに反省させられることが多すぎました。ちょっと読んでていて辛くなるほど。女子は別に学歴こだわらなくてもと口走ったこととか、恋人との性行為中にコンドームつけずに少しでもあてがってしまったこととかとかとか…。ここに書いて自分の中でよくないこととしっかり向き合います。ある程度理解はあるつもりでも本当に細かなところでも気を付けていかないといけないなと思いました。アルバイトで小学生中学生を相手にすることが多いので、女子生徒と接するときはもちろんのこと、男子生徒と接するときも「男なんだから」というような安易な発言は控えなければと思います。

 この本の中ではしきりに「感情の言語化」が強調されていました。幸い自分は中学生くらいの時からTwitterやらLINEのタイムラインなんかでアレコレ書きまくっていたので、(それで起きた問題も数知れませんが)今となっては良かったかなと思います。

 男子校出身なのですが、高校の時に、部活の先輩に「先輩たちの試合にでて自分が足を引っ張るのが怖い」とつぶやいていたのを見られ、酷く嫌われた経験があった分とても救われた思いでした。

 そしてこの感情の言語化の大切さを強調していたのは、女性との対等な関係を築くコミュニケーション能力のためでした。これがないと、きちんと自分の感情を表せないために話し合いができないというものでした。感情の吐露ができない理由の1つに「男は強くないといけない」というような脅迫観念があって、弱みを人に出せない人が多いそうです。別にそういうものはなくてもいいのだ。弱くてもいいのだということを自分自身からも積極的に伝えていけたらなと思います。

 悲しいことにもう既に性差別のバイアスが出来上がった人の考えを今から変えていくのはほぼ不可能とも書いてありました。前述のように明治時代からの男性観はなかなか根強く残っています。セクハラの相談をされたこともあるのですが、こういうことをする人たちはまだまだ社会にたくさんいます。この人たちにとって代わっていく自分たちの世代が、積極的にジェンダーや差別について学び、正しい認識を持っていくことが大事だと思います。この本を、最低限このnoteを読んだ人の意識が少しでも変わること、そしてそうした人たちによってその後世も正しい認識を持ち、性差別のない社会がくることを願うばかりです。

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