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心の中の鬼に

 鬼滅の刃、本当にすごい大流行でした。漫画も読み、アニメも見て、映画も見て、僕自身大ファンです。映画2回目見に行きたいくらいです。ヒットの要因、思う事なんかを書いていこうと思います。

 なんでこんなに流行ったか考えた時に、アニメ制作の布陣に恵まれていたとかコロナ自粛で時間があったところにきた話題作だったとか色々あると思いますが個人的に2点取り上げたいと思っています。

①「鬼=悪、鬼殺隊=善」の分かりやすい対立

②炭治郎をはじめとした鬼殺隊の究極の自己犠牲と利他性

の2つです。

 ①はワンピースなんかと比較してみると分かりやすいと思います。ついに1000話を超えて単行本も90巻以上出ている言わずと知れた人気作です。ですが、もう誰が敵で誰が味方か分からないほど登場人物の数も尋常じゃないことになっていて正直複雑を極めています。本田翼さんが似たようなことをおっしゃって軽く炎上していた記憶もあります。ただ長期連載な分作者尾田栄一郎さんの散りばめる伏線の回収はやはり面白く、僕はこちらもちゃんと好きです。

 鬼滅にもどります。現代社会に広く言えることだと思いますが、分かりやすいものは受け入れられやすいです。二項対立はその最たる例だと思っていて、自分と主張の人は味方・そうじゃなければ敵、としてしまえばいいのですから簡単です。世の中の多くの対立は雑に二項対立的文脈に押し込められているだけのものが多いと感じます。ただ悪をばっさばっさ倒していく様はやはり少年漫画ということもあり王道で受け入れやすかったと思います。

 ②は作品を何かしらで触れた人なら納得してもらえると思います。映画を見た人なら炭治郎の澄みきった心の中を見て泣き崩れる少年のシーンも記憶に新しいかと思います。鬼を、その元凶である無惨を、みんなで倒そう自分が死んでもかまわないから。上弦の鬼との戦闘や無惨との最終戦では特にそれが顕著だったと思います。煉獄さんと猗窩座の戦闘もそうでした。「この者たちは死なせない」「俺は俺の責務を全うする」などのシーンは本当にかっこよかったです。

 ちょっと話が横道にそれますが、2020年は言わずもがなで新型コロナウイルスによって生活が激変した年でもありました。外出自粛が叫ばれる中で、どのようなメッセージを送るのが効果的かを調べると、利他損失(あなたが外出すると周りの人の損失を与えますよ)を強調したメッセージが一番効果的だったそうです。

 自然界の中で同種属の他個体に利他的な行動をとれるのはそう多くありません。基本的に自分の利益には一切ならないからです。ですが人間は利他的な行動をとれます。利他的な面を強調されると効果があります。鬼滅の刃がここまで流行ったのも人間の本能的な利他性が刺激されたからというのはあると思います。周りのために、という考えが広まるのはちょうど黒人差別が大問題になった2020年にちょっと希望を与えてくれるものです。

 ここからは主に①、②の内容を少し批判的に、物語の結末にも遠慮なくケチをつけながら考えたいと思います。

対立構造があるあまり鬼はただただ悪でした。もちろん悪なので炭治郎の善良さや鬼殺隊の利他性も味方のみに発揮されています。作品の中で無惨をはじめとした鬼は大量の人を殺しているので特にこの辺について大きく文句を言うことはできないのですが、鬼にもう少し焦点を当ててみるともう少し違った世界でもよかったのかなと思ってしまいます。

 作品の中で鬼はただただ悪であり滅するものでした。しかしその中身をよく考えると、非常に人間的な感情の暴走であることが見えてきます。何人か出てきた意思ある鬼に注目しながら、タイトルの方へ向かっていきます。

 元下弦の陸・響凱(きょうがい)

鼓をぽんぽん打って部屋くるくるさせたり斬撃とばしたあいつです。小説を書いていたことが描かれていました。それがなかなか認められずましてや自分の作品を侮辱する様に酷く怒り、鬼になってしまったことも描かれていたと思います。人から認められたい、認められなくて悔しい、馬鹿にされて悔しい、憎い。

 下弦の伍・累(るい)

那多蜘蛛山にこもって家族を作っていたあいつです。虚弱に生まれてしまった累。まともに歩くことも出来なかった。しかしそこに無惨が現れ、体を強くするために鬼になってしまう。まともに生きてみたい、親を安心させたい、なんて気持ちもどこか人間的に。そして一緒に死のうとした両親を殺してしまい、代わりの鬼の家族を作り出す。

 上弦の陸・獪岳(かいがく)

善逸くんの兄弟子です。強くても雷の呼吸 壱ノ型が使えなかった。雷の呼吸の基本は壱ノ型にあるからと他の隊員に噂される一面も。弱くて泣き虫だけど壱ノ型だ使えた弟弟子善逸にも同じように接し才能があると褒める元鳴柱。そんな様子にどこか嫉妬を覚え、黒死牟への敗北から強さへと執着していく。

 上弦の参・猗窩座(あかざ)

煉獄さんとも激戦を繰り広げたあいつです。病弱な父親のためにすりをし頑張るも父親は真っ当に生きてほしいと自殺。荒れていたところを拾われ、その道場主の娘と恋に落ちるも隣の道場からのいやがらせにより死んでしまいまたも守れず。大切な人を守ってあげられなかった後悔、悲しみは強さへ執着を生んでいく。

 上弦の壱・黒死牟(こくしぼう)

こいつとの戦いマジで総力戦って感じでしたね。双子の弟縁壱との才能の差に愕然としながらも必死に追い付こうとする厳勝。しかしその圧倒的な才能の差は決して埋まらない。獪岳と似てますね。強さを求め、すべてを捨て鬼になるもそれでもなお勝てなかった。

 無惨(むざん)

 平安時代に病弱だったところを鬼になり生き延びる。本能的に感じた日の光の下へ出られない不自由は怒りを呼び起こす。自由を求め、また死を恐れ、日の光克服のために鬼を増やしていく。

 才あるものへの嫉妬。認められたいという欲求。愛する人を守れなかった後悔。自由への渇望。死への恐怖。どれもこれもとても人間的な感情だと思います。

 鬼滅の刃、最終巻の発売日には各新聞の広告をジャックしこう書いてありました。

「想いは不滅」

ならば先ほどあげた鬼たちの想いもきっと不滅なのではと思ってしまいます。ただ敵として倒すのではなく、こうした鬼にもそれこそ利他性をもって、もう少し救う方面で終わってほしかった。最後、炭治郎は入り込んできた無惨を見放して終わります。「私の想いはお前が継げ」と言っていたのが忘れられません。炭治郎には無惨こうした想いをも受け入れて永遠を生きてほしかった。

 きっと誰もが心の中に負の感情を、言うなれば鬼を抱えています。その鬼たちを単に悪とみなして倒してしまうのではなく、それを受け入れて上手に付き合っていく。そんな物語だともっと良かったなと思いました。

心の中の鬼を倒すのではなく、受け入れて超えていけますように。

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