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名残惜しさを押し殺して帰る子供たちの姿に「いきの構造」の一端を垣間見た

「いき」とは男女の異性関係において見出される構造であり、その構造について「媚態」「意気地」「諦め」のプロセスを通じて「色気」の正体を語ったのが明治から昭和の時代を生きた高等遊民・九鬼周造の著作"「いき」の構造"である。

稚拙な説明を容赦いただきたいが、「媚態」とは好きな異性に近づき好意を示すこと、「意気地」とはもっと好きな異性に近づきたいけれど強がって近づかないツンデレになること、「諦め」とは好きな異性に対する執着を捨て去った状態である。

相当な遊び人だったと言われている九鬼周造。きっとこの「いき」の構造も、彼が遊郭で遊んだ後、名残惜しい気持ちを抱きながら楽しい昨晩の出来事を忘れ去ろうと意地を張り、ついには諦めて仕事に出かけるという、そんな体験から生み出されたのかも知れない。

京都大学教授であった彼が吉原の遊郭に通い詰めていたのかどうかはわからないが、もし彼が吉原に言っていたら、媚態を示すのは見返り柳までで、そこを過ぎたら意気地を張って何事もなかったように諦め、毎日を過ごしていたのかも知れない。

ところでこの「いき」の構造は、異性間の関係のみならず、友人関係の間でも応用が可能なのではないか。先日、ついそんなことを思わされた出来事があった。

先日のとある日曜日、我が家は息子の友人の家族と動物園で遊んだ。その後、夕方にはそれぞれの家庭の帰路につくはずだった。

だが、私の息子はどうしてもまだ別れたくなくて、結局夕食も一緒にとることになり、その後自分の家にまで招待し、さらには自分の家からその友人の家まで見送りするためにその友人についていったのだ(家は徒歩5分程度なので近いと言えば近い)。これこそまさにダラダラと続く別れであり、いきも何もあったものではなかった。

楽しかった人とスパッとさようならも言わず、ダラダラと名残惜しそうに次々と新たな話題を持ちかけて話し込んだりしているのは未練がましくまさに行き過ぎで格好も悪いし「いき」も何もない。別れは寂しいくらいがちょうどいい。過ぎたるは及ばざるが如しである。

すぐに私の息子に別れの挨拶を促さなかった自分も「いき」の心も何も理解していない無神経な親だったと反省した。

もし、夕刻の動物園で、名残惜しい気持ちを心に抱えたまま意地を張って別れていたら、それは「いき」な態度で美しい休日の思い出になったのだろう。

まだ遊びたい気持ちをスパッと諦め、名残惜しさを胸に帰路につくことができるような、「いき」な計らいを子供にも体験させてみようと思った出来事であった。

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