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「銃・病原菌・鉄」を読んで、農耕民族と狩猟民族の違いについて考える

はるか昔の学生時代、米国西海岸にてコンサルタントとして働く日本人の方のセミナーを受講したことがあったが、その中でその講師の方が言っていた興味深い発言があった。それは
日本人のルーツは農耕民族だが欧米人のルーツは狩猟民族。だから思考も行動様式も異なる。農耕民族は控え目で意思決定も遅い一方、狩猟民族は主張が強く、意思決定も早い。これからの世界では狩猟民族型の思考を身につけなければならない」
といった内容である。その時は「ふーんそうなんだ」くらいにしか思っていたが、その後も、断続的にこうした論調の記事を今日に至るまでよく見かけるので意外と皆からの関心が集まりやすいテーマらしい。つまり「農耕民族vs狩猟民族」の対立構図を作った上で、その構図を短絡的にビジネススタイルに当てはめ、「だから日本のビジネスはダメなんだ」といった欧米・アングロサクソン文化を礼賛する記事が、過去10年超にわたって幾度となく繰り返されてきている。

だが、この「農耕民族vs狩猟民族」という対立仮説はそもそも色々と間違っていることが、「銃・病原菌・鉄」を読めばわかる。なぜなら日本、アジア諸国・欧米諸国もルーツはどこでも農耕民族であるからだ。さらに言えば、過去1万5000年にわたる人類の歴史は、狩猟民族が農耕民族に滅ぼされたか、もしくは移行してきた歴史に他ならない。したがって、歴史を振り返れば、「農耕民族vs狩猟民族」の勝負は農耕民族の圧倒的な勝利でもはや決着がついているのである。この点については「銃・病原菌・鉄」のみならず、「サピエンス全史」「世界史」を読んでももはや自明である。


だが、なぜこのように「アングロサクソン=狩猟民族」、「日本人=農耕民族」といった誤った構図が出てくるのだろうか。そして、なぜこの構図が我々日本人にすんなりと頭に入ってきてしまうのだろうか。それは、農耕民族という言葉を聞くと、日本の片田舎の「田吾作」的な里山風景を思い浮かべてしまうからではないか。一方で狩猟民族と聞けば、常に他民族との激しい攻防を繰り広げ、戦いに明け暮れた(と思われる)欧州の兵士の姿を思い浮かべてしまうからではないか。そしてなぜ後者の方を少しカッコいいと思ってしまう自分がいるのだろうか。それは、後者には「やらなければやられる」という高い緊張感の中で戦いに明け暮れ、自分の力で食べていくことが可能な民族というイメージを持ってしまうからだろうか。余談だが、ドラゴンボールに登場する誇り高き戦闘民族サイヤ人はまさにこの狩猟民族の典型例だろう。
だが、我々は皆、農耕民族である。「鉄・病原菌・銃」にも出てくるが、狩猟民族と農耕民族の戦いは歴史上、農耕民族がほぼ間違いなく勝利を収めている。農耕民族はそもそも人口で狩猟民族を圧倒できる上、組織だった行動ができる上、更には高専的で権謀術数にも優れているからだ。

狩猟民族は定住地を持たずに食糧を求めて移動を繰り返すため、その日暮らし的な生活になりがちであり、農耕民族における官僚・政治家のような非生産階級を養う余裕もない。また、移動を繰り返す中で女性が頻繁に子供を産むことは難しく、ある程度産んだ子供が育ち自立できた段階で次の子を産むことになる。したがって人口は増えづらい。一方で少ない人口での暮らしを余儀なくされるため、その発生に大量の人口を必要とするような疫病には悩まされない。また、移動が前提である中、筋力も骨格もたくましく育ち、また木の実や動物といった低カロリー・高タンパクな食事が中心となるので見た目は強そうであったことが想定される。

一方で農耕民族は定住しながら米・麦といった食糧を組織的に大量に生産できるようになったことで、政治家や官僚、兵士等の非生産階級を養う余裕が出てくる。さらに大量生産には労働力が必要となるので子供も多く産む必要が出てくる。こうした人口が増えた結果、疫病の温床となる。また、高カロリーの食事が中心となるためそれに伴う疾病にも悩まされるようになる(例えば虫歯)。一方で定住を前提とした生活であるため、飢饉や自然災害が起きても、その場所で生き残るための方策を常に考え続けなければならない。そのための作物の品種改良や他の地域との交易が開始される。

農耕民族が世界を席巻したことで、人類は人口増の恩恵に預かり「人新世」を築くことができたが、一方で人類が失ったものも相応に有る。例えば地球温暖化をはじめとした環境問題だろう。もし狩猟民族のままであればその行動特性上、地球に害を及ぼすほどの人口爆発は起こり得ず、自然との調和を保った暮らしをしていたことだろう。また、高カロリーな食事からくる病気(糖尿病が典型的な例)や、大量の人口を必要とする疫病(ペストなど)にも悩まされることはなかっただろう。

話が逸れてしまったが、冒頭で述べたような仮にアングロサクソン人と日本人の比較をどうしても行いたいのであれば、「狩猟民族vs農耕民族」という構図は適切ではないので、「自然の障壁の有無」を軸をとして構図を作り出すのが良いのではないだろうか。それはすなわち「平原が続くユーラシア大陸で常に他民族からの侵略の危機にさらされていた人々」と「海という自然の障壁に守られ、他民族からの侵略の危機を奇跡的に経験してこなかった人々」である。この「自然の障壁の有無」であれば、なぜアングロサクソン人は自己主張が激しく攻撃的とならざるを得ない一方、日本人は調和を重んじそこまで温和なのか、について一定程度説明ができると思われる。



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