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雨日記 #8 オオワシが切り拓く風に乗り

冬のはじまりを告げる雨が朝から音も立てずに降るのを玄関の扉を開けて知った。日曜日の朝、仕事に向かう。昔のわたしからすれば信じられないことだ。駅までの道を歩きながら、たまに静かな驚きと不思議さに包まれる。こんなふうになるなんて、あの頃の自分は想像もできなかった。

 わたしはなぜかつての暗黒のことを思いだすのか。まるでその暗黒がどんな色で、どんな肌触りで、どんな匂いで、どんな濃淡でわたしのまわりを取り囲んでいたかを記録するように思い出している、思い出そうとしている。
こんな風に一人暮らしをしながら、生活するにはギリギリかもしれないが仕事もしている。付き合っている人もいる。そんな自分がたまに信じられなくなる。どこにもある普通の暮らし(あるいはそれはとても特別なことなのかもしれないけれど)を送ることができていることが、地獄へとつづく道を最後の最後で曲がり、別の道に進むことのできた自分、そのまま地獄へと堕ちていったかもしれない自分が、この街のどこかで普通に歩いているように思えるのだ。わたしではないわたしがどこかにいて、うらめしそうにこちらをのぞき、世界に復讐するチャンスをうかがっている、そんな風に思う。突然うしろから肩を叩く手が現れはしないかと心のどこかで怪しんでいるのだ。
 あるいは、あれはもう地獄だったのかもしれない。わたしは友もなく、語り合える人もなく、ただ己のうちに耽溺し、沈みこみ、自分自身を溺れさせていた。わたしはみずから湖の深くに沈んで呼吸もできず、だが死ぬこともできず、苦しさを覚えながら、はるか上空に見える白く光るものを見上げている。
 そこはまだ、潜り方を知らないわたしがいってはいけないところだったのだ。溺れながらわたしは本を読みつづけた。それが唯一の命綱であるかのようにしがみついていた。
 自殺を本気で考えたことがあっただろうかと、わたしは考える。わたしは多くの人が芸術家を目指しながらも芸術の才がないことに絶望し、心を病み、自らを破壊したのを書物を通して知っていた。わたしは自分に芸術の才能があることを信じていただろうか? 信じていたというよりも、この口と表情ではあまりに頼りない表現力のかわりに書く力がある、あるにちがいない、なければ自分には何かを人に伝える術がないということになり、それはまるで言葉の喋れない赤ん坊と同じくらい頼りなくて、それを補うために書くことができるのだと言い聞かせていた。
 通常、人はもっと感情が自然に表情に表れるのに自分には表れないのはなぜだろう。子供の頃はあったはずだ。それも人一倍。わたしは愛嬌のある子供であり、心の中が蛇口をひねるように簡単に表に出てきたのに。
 書くことができるのかどうか、いまでもわからない。その力があるのかどうか、ないのかもしれない、これまでの時間と努力はどこにも実を結ばないのかもしれないという思いが頭をよぎることがある。そう思っていたからこそ、大学の頃は本を読むこと、映画を見ること、美術館にいくこと、思索に耽ることしかしなかった。それが自分を芸術家へと導いてくれると信じていたのだ。
 わたしはその頃、いろんな芸術家の人生を知り、それをこれからの自分の人生に重ねていた。芸術を尊び、生活を気にしない生き方をこれからの自分はしていくのだと思っていた。

 自分の歩く道がそんな風になっていかないと思いはじめたのはいつの頃からか。いよいよ働かないといけないと気づきはじめた頃からだろうか。そのときわたしは二十七になっていた。
 だがそれはまだ先の話だ。大学生のわたしにはまだ猶予があって、好きなだけ、自分のためにだけ時間を使うことが許されていた。アルバイトなんてしようとも思わなかった。そんなことをすれば本を読む時間がなくなると思っていた。文学にのめりこむのが遅かったわたしは寝る間も惜しんで本を読まなくてはならないと思っていた。いや、そんな堅苦しく考えていなかった。ただ文章によって、こんなにも深いところへ行ける、人の想いというのが文章という名の鳥によって、それでしか辿り着くことのできない、まっすぐに人の心につながる細い道をいくことができるのだ。鳥の背中に乗って道をひたすらついていくのが楽しかった。そのときのわたしには家と大学を往復する半径5キロメートルくらいの世界しかなかったけれど、わたしは家にいながら誰よりも高く、遠く飛翔していた。
 当時のわたしよりたくさんの本を読んでいる人なんて世界中探したってそれほど多くはいなかったと思う。そんな風に思っていたし、いまでもそう思っている。それがそのときのわたしが、いま生きているということに対しての拠って立つ場所でありーー、場所というより風だった。わたしはハヤブサの背中に乗ったうさぎだった。風と一緒に旅をした。どこまででも行ったし、どこへでも行きたかった。そしてその旅はいまも終わっていない。
 もう少し大きい鳥が必要だ。やさしいオオワシに乗って彼女も一緒に連れていこう。一人ではいけないところも彼女とならいけるだろう。冷たい風を帽子で忍んで、肩を寄せ合って体を温めて。

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