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「学生時代」を過剰に美化するのは社会の悪癖である。

しばしば思うことがある。社会は「学生時代」を何か特別なものとして美化しすぎなのではないかと。

「学生時代の友達は、一生の友達」
「学生時代のノリが一番楽しかった」
「学生時代が、一番純粋無垢な気持ちで楽しく過ごせた」
「学生時代の恋愛は社会人になってからとは違った」

みたいな考え方は、社会でも一定の支持を得ているだろうし、多分、こういった考えに違和感を持つ人は割と少ないと思う。

しかし学生時代って、そこまで美化されるべきものなのだろうか。

こういった考え方を総括する意見として「社会人になると損得勘定で動くようになる」というものがあるが、では本当にその人は学生時代は損得勘定では動いていなかったのだろうか。

そんなことはないと思う。

例えば学校のクラスで、この人とは自分と似ていそうだから、仲良くしておくとクラスで過ごしやすくなるだろうな、とか、この人はちょっと怖そうだから、あまり関わりすぎないようにしよう、とか、この人はかわいいから(かっこいいから)、何かのタイミングで話しかけられないかな、とか。そういう計算をしながら生きていたはずだ。

学生時代にも、様々な利害関係が存在していた。なのに、多くの人は大人になるとそれを忘れ、過去を美化してしまう。

生物というのは、常に競争原理に晒されている。人間もその例外ではない。例えば、学校でも成績で競争を強いられ、その結果で進学先が振り分けられる。コミュ力で競争を強いられ、その結果で人間関係が振り分けられる。ルッキズムという言葉があるように、ルックスの良し悪しでも競争を強いられる。運動神経も同様だ。芸術的感性のような、一見競争原理とはあまり縁がなさそうに見えるものですら、それを何かに活かそうと思えば、競争の中で勝たなければならない。誰もいないニッチなジャンルを攻める、というのも「みんながまだ気付いていない分野を見つけて、最初に居場所を確保する」という場所取り競争に参加している。

この世は競争原理で回っている。

そして私は、学生時代の方が露骨にその競争原理によって生まれた差を誇示する人間が多かったと、過去に出会ってきた様々な人たちの言動を振り返って思うのだ。もちろん大人と比べると、生きてきた年数が違うため多少、仕方のないところはある。とはいえ、そういった人たちに損得勘定が無かったとは思えない。

私は、ほぼ全ての人間は大小の差はあれども、欲深いと思っている。悟りを開いたような人はほとんどこの世の中に存在しない。そのため、大多数の人々は「シンプルに欲深い人」か「欲深くなさそうだけど実は欲深い人」なのだ。

なので、学生であろうが社会人であろうが、人間は基本、欲深い。学生を何か純粋無垢な生き物だと見るのは違うと個人的には思っている。しかし、社会ではそのような見方が主流だ。(ちなみにこの見方は、YouTubeで野生の動物たちがたわむれる動画を見て「お友達と一緒にお外におでかけしたかったんだね~かわいい^^」等とコメントする人の心理にどこか似ている。動物は生存に必要だからその行動をとるだけで、彼らの中に「お友達とおでかけしたい」という感情は恐らく存在しない。実態は異なるけれど、外側から観察している人が「そう思いたい」のである)

日本社会においては、こういった「学生=純粋無垢」という価値観が、新卒至上主義に色濃く出ているのではないか。「まだ何も知らない若い子を、自分の会社色に染める」という文化が出来ている。これは、日本社会が持つある種の性癖ではないだろうか。「日本社会はレールから外れた者に厳しい」という批判は、もう何十年も前からあるけれど、その抜本的な解決策は見出されず、レールから外れることを良しとしない社会構造はあまり変わる様子がない。その結果として、レールから外れられないためにイノベーションが起こらず、イノベーションが起こらないために資本主義社会において高く評価されるような新しい価値が生まれず、高く評価される新しい価値が生まれないために他の先進国に経済成長で後れをとり(失われた30年)、他の先進国に経済成長で後れを取るために日本全体のムードが後ろ向きになり、日本全体のムードが後ろ向きになるためにさらに不景気になり、よりレールから外れにくい社会構造が強化されていく。

「学生時代」を過度に持ち上げる風潮は、この日本社会の「癖」に根差していると個人的には思うのだ。この対策として、学校よりむしろ、社会のなかで生きていくことが楽しいと思えるような新しい文化の創造が、これからの社会でより求められていくのではないかと思う。

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