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人生の美しさは苦境のなかにある

多分、読んだ人の10%くらいにしか共感されないことを書いてみようと思います。

人生の美しさは苦境のなかにある。

こう思ったきっかけは、自分の人生経験と、世界史を学んだことです。

人生経験のほうから言うと、私は10代中盤から後半にかけて、人間関係においてとても苦しみました。家庭にアル中の人がいたり、学校でいじめられたり、部活やバイトの人間関係がうまくいかなかったりなど、ほとんど全てにおいてです。今はその頃と比べると、穏やかな暮らしを送っているのですが、不思議とそのころの思い出が、強く記憶に残っているのです。

そして不思議と、今の自分があるのは、その頃の苦労した自分がいるからとも思うのです。人間関係全般に苦労しましたが、自分の至らなさに気づき、他人との距離感を学ぶ貴重な機会になりました。そして、自分の中で何が譲れない価値観なのか。何が譲歩したり、他人に合わせたりできるような価値観なのか。そういったことを、10代のころの失敗から学ぶことができたと思うのです。

正直、失敗ばかりの10代でしたが、後から振り返れば、いいところもあったように思います。「人生は、クローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見ると喜劇である」という格言がありますが、私の場合もそれに似た感じかもしれません。もちろん悲劇といっても、その人自身が壊れてしまうレベルの強烈なものであれば、絶対に避けるべきです。しかし、ある程度の悲劇であれば、それは長い目で見たとき、すでに過ぎ去ってしまった波乱万丈な人生の記憶にもなりうると思うのです。そして、その過ぎ去った悲劇をふり返ってみた時に、「それが起こった原因は何か?」「今後、その原因を防いでいくために、必要なものは何か?」「その必要なものを獲得するためには、具体的に何をしていけばよいか?」という長期的な視点と、そこから得られる知恵、そして自分のぼんやりとした輪郭を知るような感覚、といったものが自分のなかに残ったことに気づきました。そういったものを残してくれた悲劇は、その時の自分にとって必要なことだったのだと、今となっては思います。

とにかく、私はギリギリのところで、自分にとっての悲劇を受け入れ、それを自分の糧にして生きていくことができた。

10代の頃の自分には、直すべき面がたくさんあったと思います。例えば、自己中心的で、視野が狭く、被害者意識が強いところなどです。

しかし同時に、自分の信頼する人には優しく接したり、自分の好きなことは努力しようとする意志があるなど、良い面もあったとも思います。

そんな不完全な自分ですが、不器用ながらも、なんとか今日まで生きてこれた。

こんなに不器用な人間って他にいるんだろうか、と何度も内省した10代の頃。周りを見渡しても、自分より全てにおいてうまくやっているように見えて、それが辛かった。そして、そんな不器用すぎる自分が嫌いでした。

しかし今、振り返ってみると、その不器用にもがく様が人間臭くて、自分らしいな、とも思うのです。そうしてもがいている時の自分は、わりと好きだったりします。そこには、今の自分よりもっと良い何かになろうとする意志があるからです。それは後に、ギリシャ哲学を学んで知ることになる、プラトンの提唱する「善のイデア」に似た何かだと思うのです。より善い精神性を求めて生きる、というと大げさですが、それに近い何かがあった。

また、私が「人生の美しさは苦境のなかにある」と思ったキッカケはもう一つあります。世界史を学んだことです。

ユダヤ人という集団がいます。彼らの過去の歴史は迫害の連続でした。第二次世界大戦のアウシュヴィッツが有名ですが、それ以前の中世ヨーロッパでも差別されることが常でした。(差別の理由としては昔、イエス・キリストが裁判にかけられ、十字架に磔になって処刑されたのが、イエスを敵視したユダヤ教徒たちの訴えによるものだったから、というものです)そういった事情もあり彼らは、当時は蔑まれる職業だった金融業をするしかありませんでした。そして、宝石や貴金属といったどこの国でも換金可能な財産を蓄えながら、いつでも今いる国を脱出できるような「根無し草」「永遠の旅人」としての暮らしをせざるをえなかったのです。

中世ヨーロッパではどこの国でも、ユダヤ教の信者であるというだけで、大変に生きづらかったはずです。それでも彼らは、信者として生きることを選んできた。ではなぜ、そこまで強い信仰心を持つことができたのか。

そこには様々な要因がありますが、ユダヤ教の成立の起源のひとつである、バビロン捕囚という事件が大きな影響を及ぼしていることも、その理由の一つです。

今から2500年ほど前の、中世よりさらに昔、古代の話です。当時のユダ王国という国を、新バビロニアという強国が滅ぼして、ユダ王国の住人(=古代ユダヤ人)を新バビロニアの土地に移住させたのです。そこで古代ユダヤ人たちは、新しい土地の宗教を受け入れるのではなく、自分たちの信仰を貫いた。そして、「自分たちが今、こんな惨状にあるのは、ユダヤ教の教えをきちんと守らなかったからだ」と考え、それまで語り継がれてきたユダヤ教の教えを文章にして、まとめはじめたのです。その時期に編纂された文章を基にして、後の時代に新しい文章が少しずつ加わっていくことで、それがやがて現代の聖書になっていくわけです。(補足知識:ユダヤ教にとっての聖書=キリスト教にとっての旧約聖書)

そうした民族が乗り越えてきた歴史があるからこそ、ユダヤ人は強い信仰を持ち続けることができた。

ユダヤ教に対する評価は人それぞれですが、「たとえ国すら失おうが、自分たちの信仰と共に生きていく」という覚悟の部分に関しては、ユダヤ人は随一だと私は思います。そしてそれは、苦境の中から生まれたものなのです。

いわばユダヤ人は、苦境のなかで「自分たちにとって、一番大切なもの」と出会ったのだと言えます。

また、私はアメリカの黒人奴隷の歴史を思い起こしても、「人生の美しさは苦境のなかにある」という法則を感じます。黒人奴隷としてアフリカ大陸から連れてこられた人たちは、プランテーションのような、過酷な労働環境で働かされました。彼らは夜中になると、白人の主人に見つからないようにこっそりと集まり、自分たちの魂の救いを求めて、海をへだてた遥かかなたのアフリカの伝統音楽を歌ったそうです。そこにキリスト教の精神が加わったものが、今でいうゴスペル音楽の起源だと言われています。

このように世界史に目を向けてみると、自分の抱える悩みなんてものすごくちっぽけに思えるような、壮絶な苦境に立ち向かってきた人たちの歴史が過去にあったことに気づきます。そして、そうした苦境を乗り越えようとした人たちがいて、彼らがその時代を必死に生きたからこそ、後世にまで残るような普遍性のある何かが生まれてきたのではないか。そう個人的には思うのです。

悩みから、優れた文化が生まれる。文化とは、人間の精神活動のことです。人間の豊かな精神活動は、苦境のなかに発生すると私は思っています。

美しい人生とは、何も知らない純粋無垢な状態や、完全無欠のエリート的な人生のことを言うのではなく、傷だらけでボロボロになりながら、それでも心の美しさに憧れて生きる人の生き様のことを言うのではないかと思うのです。

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