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なぜ、文章や音楽は粗削りな方が魅力的に見えるのか?

昔から、疑問に思っている事がある。

文章にしろ音楽にしろ、なぜか粗削りな方が魅力的に見えるのだ。
今日は、それがなぜかを考えてみたいと思う。


フィルターを通していないありのままの状態を見ることができるから

一番最初に出てくるのは、これだ。

多くの文章や音楽は世に出る前に、なるべく多くの人々に良いと思ってもらえるよう、何度も加工される。そしてその加工を経ていくなかで、角が取れていき、みんなから70点をもらえるようなものになってしまう。

しかし、本当に誰かの心を動かすのは、多くの人に30点だと言われても、ごく少数の人たちが120点をつけてくれるような、狭く深く刺さるようなものではないか。そしてそういうものは、フィルターを通されて丸くなっていない、デコボコの何かなのではないかという気がするのだ。

学校で例えると、みんなから70点もらえるような意見とは、委員長のクラスの運営方針のようなものだ。言っている事はおおむね正しいし、それを実行する事でクラスが良くなることは確かなのだが、そこにはワクワクがない。逆に、何の役職にもついていない生徒が言うクラスを良くするための意見は、しばしば学校のルールからは外れているかもしれないが、意外にオリジナリティがあってワクワクしたりする時がある。

この二つの違いは何かというと、委員長の意見は、学校の運営方針というフィルターを経た上での意見であり、役職についていない生徒の意見は、そういうフィルターをとっぱらった、自分の心の声に従った意見であるということだ。

この委員長と生徒の例のように、フィルターを通せば通すほど、尖りがなくなってつまらなくなるという事は、傾向としてあるのではないかと思う。

よく、ミュージシャンや作家のコアなファンの間で「初期の作品の方が良かった」という意見が聞かれることがある。これは恐らく、何もしがらみがなかった初期の頃の尖った部分に、ファンが共鳴するからではないかと思う。尖っていればいるほど、それは平凡とはかけ離れていくわけで、その分、その尖りと似たような「心の中にあるトゲ」を持つファンには深く刺さるようになる。そして、そういうものを生み出そうと思えば、なるべくフィルターを取っ払い、大多数の人々に批判されるのを恐れない姿勢が必要になってくる。尖りは良くない結果を生むこともあるが、上手くハマれば、強烈な魅力にもなりうる。

想いが伝わりやすいから

見え方の問題かもしれないが、粗削りなほうが、その人の想いが伝わりやすい気がする。

また学校で例えるが、全校集会で校長がする長い話に、あまり想いは感じとりにくい。校長の話はどこか、「マニュアルに沿って話している感」があるからだ。もちろん、そこには多少の本音も含まれてはいるだろうが、わざわざその本音と建前を見抜いて、真意をくみ取ろうとするほど校長の内面に興味のある生徒はいない。

しかし、卒業式の日に、担任がクラスのみんなに贈るはなむけの言葉は、しばしば生徒の心を動かすことがある。なぜなら、その言葉はクラスの生徒たち一人一人の個性を知った担任にしか言えない、オリジナルなものだからだ。

マニュアルに沿った出来の良い定型文は内容は良くても、人の心を動かすことはほとんどない。逆に、オリジナルな言葉はたとえ少し内容に整合性がなかったとしても、人の心を動かしうる。なぜなら、そこに想いが乗っていることが粗削りな部分から伝わってくるからだ。

まとめ

ここまで書いてみたものの、果たして他の人も「粗削りなほうが良い」と感じているのだろうか、という疑問はある。あくまで自分はそう感じるというだけなので。あと、結局は希少性の問題な気もしている。みんなから70点をもらえるような優等生なものは、世間にありふれている一方、一部の人に120点をつけられる尖ったものは、内容がニッチな分、供給されている量が少なく、それゆえに価値が高いと感じやすいだけなのかもしれない。もう少しこの問題は深掘りできそうな気もする。


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