相手のことをついつい批判してしまうときどうする?

先日説教学の授業で説教を作りました。
シェアします。

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・導入
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みなさんおはようございます。
最近は出版不況です。
本が売れない時代です。
もちろんキリスト業界も例外ではない。
いや、かなり深刻な出版不況です。
その中で異例に売れているキリスト本があります。しかも一般の方にも。
それがこれです『世界一ゆるい聖書入門』。
重版もかかりかなり人気があります。

この著者は上馬キリスト教会。
ツイッターのフォロワーはなんと7万人以上。
一般の方に知られているキリスト業界でもっとも有名な教会の一つになりつつあります。

そのきっかけは上馬キリスト教会があるつぶやきをしたことがきっかけでした。

「日曜日に遊びたい」

ある意味クリスチャンの本音もあり、世間としてはそれ言っちゃっていいの?(笑)
というのでウケて大ブレイク。NHKにも紹介されたそうです。

日曜日に教会に行って礼拝することは日本から見ると少数派。
小さい頃とか、大人になってからクリスチャンになっても、
日曜に教会に行くことというのは、周りの人の過ごし方とは違う。
もちろん全然気にしない人もいるとは思います。
が、なかには心の奥底で
「実は友達と遊びたいなー」とか
「実は家族みんなで罪悪感なく思いっきり日曜に遊びに行きたなー」とか
思ったりすることもあるかもしれません。

さてみなさんに質問です。
あなたは日曜日遊びたいなーと思ったことが少しでもありますか?

今日のテーマは「本当はやりたいこと」についてです。
では聖書を見ていきましょう。

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・再話
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今日の聖書箇所はルカ15章11〜32です。

イエス様は例え話をしました。

あるところに2人の息子と父親がいました。
弟は言いました。
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『お父さん。あなたが亡くなってからでなく、今すぐ財産の分け前がほしいんです』と言いだしたのです。それで父親は、二人にそれぞれ財産を分けてやりました。
ルカの福音書 15:12
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そのあと弟は遊び尽くしお金がなくなり、
ちょうど飢饉も重なり我に帰り立ち返ります。
そしてお父さんのところに向かいました。

帰ったとき、お父さんが、
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死んだものとあきらめていた息子が生き返り、行方の知れなかった息子が帰って来たのだから。』と弟を受け入れ、こうして祝宴が始まりました。
ルカの福音書 15:24
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まずこれが今回の物語の前半です。

弟は立ち返って家に戻り、お父さんは赦し、あたたかく迎えてくれてめでたしめでたし、
でした。

しかしこれで物語はまだ終わってません。

次に焦点が当てられるのは、弟が遊んでいる間、家にいて家のことを守っていた兄の存在です。
今回は特に兄ついてじっくり一緒に見ていきたいと思います。
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ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。
ルカによる福音書 15:25-26
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兄は今日も仕事を終えて家に帰ってきました。
しかしいつもと様子が違います。
まるでお祭りみたいに何か楽しげ、みんなで宴会をしている感じ。
なんかめでたいことでもあったのか?と。
そして僕をよんで聞きます。
『いったい、これは何事なのか』と。

すると僕はこう答えます。
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『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。
ルカによる福音書 15:27
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はい?兄弟?
あ、あの身勝手な弟?
父さんに死ぬ前なのに財産を分けてくれと言って出て行った失礼なやつだ。
それがのこのこ帰ってきただと?
どの面下げて?
しかも父が、そんな身勝手な弟に肥えた子牛を用意しただと?

当時肥えた子牛とはとても高価なもので特別な時に使うものでした。
それをあの弟が帰った時にそれを使ったとのこと。

それを聞いた兄は次のように反応します。
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兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。
ルカによる福音書 15:29-30
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兄は烈火のごとく怒りました。

私は、あなたにそむいたことなく、やるべきことをし仕えていたのに、
あなたは私のために子牛よりぜんぜん価値が低い子ヤギ一匹もくれたことはなかった。
それなのに、あのあんたの子が帰ってきたら、最上のものである子牛をあいつに出した。
いったいどういうことだ?

いままでの不満が今回のをきっかけに吹き出します。
なぜか?
筋が通っていないように感じるからです。

でももともと弟も筋を通そうとしてました。
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もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
ルカによる福音書 15:19
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弟自身も雇い人の1人として受け入れて欲しいと思いました。
弟は弟なりに筋を通したわけです。
息子として受け入れなくて結構なので、せめて命だけは、、、、と。

でも父は、帰ってきた弟を息子として受け入れました。
だから兄は怒ったのです。

もし私が兄でその場にいたらこう思います。
「わかったわかった、あなたが自分の子が戻って受け入れたい気持ちはまぁ分かる。
家まで戻ってきて受け入れなかったら見殺しにしてしまうからだ。
でも受け入れるなら自分と同じ立場で扱うのはやめてほしい。
あいつはあなたの財産を自分の都合でもらい、そして自分の都合で欲のまま遊び、
その結果ひもじい思いをした。
完全に自業自得じゃないか。
だから彼はちゃんと罰せられるべきだ。
彼を受け入れるならしもべの一番下の位から受け入れ、何年も働き、
その働きに応じてだんだんと位を上げていくのが筋ってもんじゃないか。
そしてその判断は俺が決める。
ここで甘やかすとまた同じようなことをするかもしれないからだ」
と。
私ならそう思い、父に言います。

父の判断ではない、僕自身の判断でこの弟を裁こうとします。
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・展開
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このイエスの話した例え話は一般的に、
兄は当時のパリサイ人や律法学者、
そして弟は遊女や収税人などの世間的に罪びとの立場の人、
と言われています。

パリサイ人や律法学者の彼らは、
自分たちはちゃんとやるべきことをやっていると自負していました。
「十一献金はしている、礼拝を守っている、奉仕もしている、お祈りもしている」
と。

でも当時罪びとと言われた人は、
それとは程遠い生活をしていました。

もし私がパリサイ人や律法学者ならば、
ちゃんと決まりを守っている自分たちこそ救われる。
私たちのやっている行動の結果、肥えた子牛は私たちのものだ、と
思います。
だって頑張ってやってるんだもん。ずるいんじゃないかと。

でもこの話の父である神は、彼らとの思いとは違っていました。
悔い改めた罪びとたちにこの子牛を与えるのです。
弟に子牛を与えるのです。

それは行動の結果ではなく、ただ悔い改めをすることによって罪を赦され、父の子とされる、救われるということを意味します。

でもだからこそパリサイ人、律法学者はイエスを赦しませんでした。
なぜ俺たちはこれだけやっているのに、その欲しい報酬を、
何も行動できていないあいつが、ただ悔い改めただけで手に入れるのだと。

ここに彼らのひとつの思い込みが浮かび上がってきます。

自分の行動によってそれに応じた報酬をもらうべきだ、と。


私たちもこんなふうに思って怒りを感じないでしょうか?
「自分は身を粉にして働いて、家族を犠牲にしてまでも働いているのに、あいつは休みを取っている。納得いかないよな?不平等だよな?」
とか
「自分はよく働いている、なのにあいつはおまえより働いていないのに、お疲れーって褒められている。納得いかないよな?不平等だよな?」
とか
「自分は昔から親に怒られていろいろ我慢してきた。なのに、あいつは親に反抗している。納得いかないよな?不平等だよな?」
と思い怒る。

だから私たちは、我慢をしながらも表面上従って行動している時、それに対して報酬を期待する。
しかし隣で、自分の我慢している行動をしなくても、手にいれてしまう人に対して怒りをぶつけてしまう。

そして人間関係に亀裂が入っていく。
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・例話
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こんな話を聞いたことがあります。

ある中学生の女の子は音楽が好きでした。
吹奏楽部に入ります。
打楽器が興味があったため、パーカッションを担当します。
のめり込んでいく毎日。
でも彼女は音楽が好き以上に家族も好きでした。
なので家族が休みを合わせられる日曜は、
家族の日と決めて部活の練習があっても休んでいました。
でも顧問の先生はそれを理解を示したものの、いつも小言を言ってたそうです。
「なんであなたは気軽に休むの?」
「他の子は頑張っているのにあなたは休むなんて。」
と。
もちろん彼女は休む分、他の日に練習をしていました。
でも先生の小言は終わりませんでした。

ついに彼女はお父さんに言います。
「もう吹奏楽やめる」
「え?やめちゃうの?あんなに音楽好きだったのに?」
「うん。やっぱブツブツ言われるのやだし。
でもその先生がそう言ってしまう理由はわかるんだ。」
「それは何?」

「先生が休めてないから。」

学校の先生というのは部活の顧問になると、そこまで給料はあがらず、
しかも土日も試合だ練習だやらで休みがとれないらしいものだそうです。
部活の顧問というのは基本は先生の善意であり、生徒のためにということで自分を犠牲にしてやっている。
自分が本当は自分の家族と一緒に休みをとりたい、のに生徒のため、学校のためなどによって身を犠牲にする。
すると、部員で家族の日を優先して部活を休んでいる人を見ると裁いてしまう。
私はこんだけやっているのに、と。

あいつは自由にしている、
あいつはこの団体、組織のことをちゃんと考えていない無責任なやつ、

私は身を犠牲にしてやることやっているのに、それでも私は休まない。

だから、自分と同じような犠牲、条件をしている人以外の人で、休みを手に入れているのをみると不平等に感じてしまう。
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・適用 じゃあどうすればいい?
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では、今後も私たちは何かすべきことがあるとき、
兄のように表面上の行動をするか、
弟のように明らかな反抗をする、
のどちらかをし続ければいいのでしょうか?

ここに良い知らせがあります。

私たちは、
イエスがすべての罪に対して代わりに十字架かかって下さったことによって、
私たちがどんなことを思っても、どんなことを神に対して言っても
十字架によって赦される関係になっています。

だからこそ私たちはこういうことができるのではないでしょうか?

今の心にある気持ちや思いを、父である神に伝え続けること。

イエスの十字架によって精神的自由を与えらえ、何でも自分の気持ちを神の前で話すことにより、神との人格的回復が始まります。
その結果、他の人が弟のような行動をしてもだんだんとそれを受け止め、愛をもって接せられるようになるのではないか。

もし兄が普段から、
「自分には友達を楽しむために子ヤギもくれない」と不満に思っていたのであれば、
その気持ちを父と普段から話すことにより、
自分の気持ちが理解され、受け止めてもらうことが分かり、
今回のようにここまで怒ることはなかったのではないでしょうか?

イエスはこうは言いません。
「いやー私の十字架でそのあなたの気持ちはちょっと受けきれないわー」
と。

あなたがどんな思いを持っていても、
それはとても他人にはとても言えないもの、非倫理的なことも、
また神にも、こんなことを思っていけない、と思っていることも、
イエスは十字架によって受けとめてくれます。

その時、神に対して自分の心の底にある、
自分は本当はこうしたいという、黒いドロドロした気持ちを神に告白をすることによって、
それが神の光に当てられ癒しと回復が始まります。

これはクリスチャン歴が長いと意外と難しい。
なぜなら〜すべき論が長いので、自分の本当は〜したいという気持ちになかなか気付きにくいからです。

日曜は教会に行くべきだし、そういうもん。
でも本当は日曜遊びたいと。
色々期待されているから奉仕やらなきゃ、そういうもん。
でも奉仕はしばらくやりたくないし教会にも行きたくない。
家事はいつも私ばっか。でも家事は主婦がするもの。そういうもん。
でも夫に家事を手伝って欲しい。
職場にいるあの人のことあまり好きじゃないけど仲良くやらなきゃ、そういうもん。
でもあの人なんていなくなっちゃえばいいのに。

すぐに、
〜すべき論がきて、本来自分が素直に感じた気持ちすらも否定するようになってしまう。

だからこそ今の自分の心の思いをありのまま出し祈るのです。
普段、本当のことを言わずにいる人ほどこの告白は恐れを抱くものです。
自分が素直に思っていることを認めることは予想以上に醜いことがあるからです。
でもどんなことを思っていてもあなたは赦されています。
イエスがあなたの代わりに十字架にかかってくださったからです。

だから恐れず、自分の心にある、ありのままのものを告白して、
神の光の中に出していこうではありませんか。

さて最後にあなたに質問です。
「あなたが本当に思っていることって何ですか?」

ではお祈りします。
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・お祈り
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天のお父様、この時を感謝します。
あなたは私を愛するがゆえに、子なるイエスを人として遣わし、そして受けるべき罰を代わりに受けてくれました。
だから私はあなたの前に何を言っても、思っても赦される関係になっています。
でもその自由を与えらえれているのに、〜すべきではない、〜してはならない、と正論が出てきて自分の気持ちをすぐに否定し、押し込めてしまうことがあります。
それがたまり、時間がたつと、本来自分がやりたかったことをしている人を見た時、その人を批判し、裁いてしまいます。
今もう一度、あなたの十字架によって何を思ってもいい自由を与えられていることを受け取り感謝したいと思います。

そしてこれから1分間とって、
自分の心と向き合って、本当はこうしたい、あーしたい、という自分の気持ちを告白する時間にしたいと思います。

そして神の前に、ありのままの自分の気持ちを出していきましょう。

・・・・

イエス様、あなたの十字架によって、
このどんな気持ちをも受け止めてくれるあなたの愛に感謝し、
またこの関係をし続けられるよう力と勇気を与えてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。



今日も最高の1日を😄

God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)

長瀬雄大

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