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映画エッセイ:『空気人形』生と死と共に生きる

 『万引き家族』の是枝裕和監督の2004年の作品。

 先ずは公式のストーリー紹介から

 古びたアパートで、持ち主である秀雄と暮らす空気人形――空っぽな、誰かの「代用品」。
ある朝、本来持ってはいけない「心」を持ってしまう。秀雄が仕事に出かけると、洋服を着て靴を履いて、街へと歩き出す。
初めて見る外の世界で、いろいろな人間とすれ違い、つながっていく空気人形。
ある日、レンタルビデオ店で働く純一と出会い、その店でアルバイトをすることに。
密かに純一に想いを寄せる空気人形だったが、彼の心の中にどこか自分と同じ空虚感を感じてしまう――。

 まず、この映画が素晴らしい作品であることを記しておきたい。
是枝監督が『万引き家族』で提示した主題は初期のこの作品に全て揃っていることが確認できる。

 物語の主人公は男性のために生産された空気人形、いわゆる「ダッチワイフ」と過去に呼ばれていた人形。
なんの説明もなく、人形は魂を持ち、歩いて街に出る。
 たまたま入っていったビデオレンタル店でアルバイトすることになり、店員の純一(井浦新)に人間世界のことを教わる。
 なぜ人間は生まれてきたのか、死ぬこととはどういうことか。
 空気人形はやがて、無表情だった顔に情緒豊かな表情を持つようになる。
 喜び悲しむことができるようになる。

 ただ、空気人形は自分の存在がわからない。空気人形はつぶやく。
「私は性欲処理の代用品」
 だれかの代用品であることを空気人形は悲しく思うようになる。そして、自分が空虚な存在だと思う。
 ある日、公園で出会った元代用教室の老人から空虚な人間は君だけでないと言われて、詩を教わる。
 そこには命が支えあってできている世界で、欠落しあった存在が、互いに支えあっていることを忘れているという世界観があった。

 空気人形は自分のルーツを確かめるべく人形の生産工場を訪れ、自分を創ってくれた人形師(オダギリ・ジョー)に会う。人形師から温かく迎えられた空気人形は、自分は魂をなぜ持つことになったのかと問うが、人形師はそれは神様にでさえわからないと答える……

 この物語における解釈はいくつも成り立つ。空気人形の性の代用品という設定から、空気人形はセックスワーカーのメタファーとしても解釈できるし、コミュケーションの問題から外国人のそれとも解釈が可能だろう。

 いずれにしても主題の一つは社会における格差と共生の問題である。代用という言葉は空気人形の「性欲処理の代用品」、高校における代用教師」、交代可能なアルバイト従事者、非正規雇用の社員といった登場人物に当てられ、簡単に交換できるコマとしての「代用者」を見せる。
 格差の中に個人はどう存在しているのか?映画はその魂を持った生ける個人の存在を声なき声で叫ばせる。

 さらに評価されるポイントは、この映画がフランケンシュタインのオマージュとなっている点である。

 老人から人形が知識を得るという件は『フランケンシュタインの花嫁』からの同様のシークエンスからの引用であることはほぼない間違いがない。

 人形師(創造主)と空気人形(創造物)の対面は、創造主が創造物を愛情を持って迎えるというものであり、これはメアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』をはじめ数々の映画作品で創造主が創造物を拒絶するという表象を覆している。
 フランケンシュタイン・コンプレックスという心理を『空気人形』は対話によって起こる親和という関係によって、解決策を見出す。

 『空気人形』はあらゆる点から見ても、是枝監督の社会、生命、人間の在り方への思想が随所に溢れている作品である。

 あまり話題にならない作品だが、是非とも再評価されてほしい映画である。

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