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心の中の渋谷があの日のまま止まっている

手帳を忘れたので取り止めのないことを書く場所がなく、ぼーっとしながらキーボードを殴っている。
こういう時に小説をさらりと書ければいいのだけれど、なんとなく無理だと思った。理由は明快で、心が平坦だからだ。

いわゆる気分安定剤を飲んでいるので、心は圧倒的に平坦になりやすい。もちろん薬の力が及ばなかった日は、それはそれは悲しかったり辛かったり異様に楽しかったりするのだけれど、基本は滅入る。
けれども、その滅入る感覚がふっと創作意欲を掻き立てるのも同時であったりする。難しい塩梅だと思う。健康になればなるほど、小説は不健康になっていく。

イヤホンの耳にはめる形式を間違えながら書く文章は、どことなく味わいがある。

散文を、正しく言えばポエムを書き連ねる場所がなくなってしまい、どうしようか悩んでいる。
ずっと端末側に記録していたはずのそれらは、iPhoneからAndroidに変更した際に失われた。いい文章だけを厳選して、気に入ったものだけをEvernoteにまとめて、そうして残ったものが今は気に食わない。
でも文章だとか、感覚だとか、ナンセンスだとか、そういうものではないの、と常々思う。ダサいものは永劫ダサいわけではないし、イケてるものも同じだ。ずっとイカしてるものはない。津々浦々、様々流動的になっているのであって、同じものは一度としてない。一瞬の切り貼り。
だから、仕方ない。そうなったものは、そうなったもので、味わいがある。ずっと好きなものは、大切にしないといけない。大切でなくなったとき、きっと我を見失う。

じゃあ何がイケてるんですか、という話になるかもしれない。
そんなの決まってるだろ、『すばらしきこのせかい』だよ。

『すばらしきこのせかい』に見惚れてからもう16年経過することに驚きが隠せない。
というか、私がそこまでの年齢になっていることに驚いてしまうと言うか、すばせかに出会ってからの自分はずっと停止しているような気がしている。ずっとあのゲーム体験を心の中に閉じ込めて、離せないような感覚がしてしまっている。それが悪いことではなくて、確実に何かを比較するときの主軸として、すばせかが置かれてしまっているというだけなのだが。
それが悪い方に向かうこともあるし、悪くないこともある。極論、私に影響を与えた多大なコンテンツとして君臨しているだけなので、無害と言えば無害だ。
でも、大切なコンテンツとして一生をしまって、そこから抜け出せないような気もしている。異様な程の尊敬は呪いに変わるんじゃないかと思う。だから、適度な方が良い。何事もほどほどにだ。

だから『新すばらしきこのせかい』の発売が決まった時に得たのが「怖い~!」という信者にあるまじき声だったのが印象的だった。自分のことながら印象的だった。だって私は、望んでいた新作の発売を目の前にして怖がっているのだ。これがどうしておかしな話だ。
自分があの日、DSを引っ張り出して、画面をスラッシュ・タップなどしながら遊んでいた体験を超えられるものが出るのかが怖かった。あの日の思い出を塗り替えられるものでなければ、新作とは呼べないだろう。新作も面白かったんだけど……だなんて言いたくはないから、必死に願っていた記憶がある。イケてるゲームは一生イケてるゲームであって欲しい。私の思い出を塗り替えないで欲しい。傲慢な考えだ。

結局どうだったのか? 『すばらしきこのせかいシリーズ』はイケてるゲームで終わったのか?
当たり前だろ。『すばらしきこのせかいシリーズ』だぞ。

ほっとしたのを覚えている。
あの日の少女だった自分がきちんと報われたような気がした。早く続編でないかな! という希望が14年後に叶えられるとは思いもしなかったけれど、よかったなと思う。
ああ良かった。本当に良かった。イケてるものは永劫イケてる。

一瞬の切り貼りと書いたけれど、その一瞬の切り貼りが永劫続くこともある。
長く大切にしておきたい感情を、どうして言葉にできようか。なかなか難しい話だけれど、あの日の感情が間違いではないことを求めながら生きている気がする。私の体験は私のものです。誰にも邪魔されず、嫌われず、ずっとしまっているものです。

何か一つを抱えることは非常に難しいことだと思っていたけれど、まあ簡単なのかもしれない。私はぼうっと雪景色の屋外を見つめながら、雪降る渋谷に思いを馳せている。

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