上の文章について言及します。

「私」について言及します。

私は京都市内在住の男子大学生です。
理学、特に化学を学んでおり、生体分子の挙動について興味を持っています。
謎解きサークルに所属しており、昨年は代表を務めていました。
文章を書くのが好きで、こうしたnoteをたまに執筆するほか、個人ブログも運営しています。
その他の趣味はゲーム・カラオケ・読書・料理などです。


上の文章について言及します。

大学生ということを明記し居住地域と専攻について触れていますが、大学名や研究内容については述べていません。
これはそのような具体的な情報が今回の記事においてはノイズになると判断しているからです。
謎解き・文章執筆とその他の趣味を分けて書いていますが、これは前者では収益を得ているのに対し、後者はあくまで娯楽として扱っているものであることが理由だと考えられます。
「ゲーム・カラオケ・読書・料理」の順で記載していることに大きな意図はありませんが、後のものほど義務的な趣味という色合いが強いです。


上の文章について言及します。

最初の文章は事実を書き連ねているのに対し、2番目の文章はそこに対する感想や考察が加わっています。
段落を構成する各文の末尾は前後の文と異なるものになっていますが、これは同じ文末が連続することを避け、文章をなるべく読みやすいものにしようという意図によるものです。
「義務的な趣味」という言葉についての説明が足りていないため補足します。
ゲーム・カラオケはあくまで娯楽であり、これを経験しなくても生活を継続することはできますが、読書は学校生活や仕事の継続、料理は生命活動の維持に必要なものです。
そのほかにも活動を維持するために必要な事柄は存在しますが、その中でも特に「楽しんでやろう」という意識が強いものについて「義務的な趣味」という言葉を当てています。


上の文章について言及します。

これは元の文章の内容そのものではなく、文章の構造や文の役割、単語の意味について解説する目的の、いわゆる「メタ的な」文章です。
「メタ的」という言葉は様々な用例があり、正しい意味を一概に規定することは難しいのですが、ここでは「ひとつ上の次元から触れる」「客観的に見て述べる」というふんわりとした意味で使用しています。
こういった視点は自身の発言や行動を冷静に分析することに役立ちますが、当事者意識や感性の欠如、斜に構えた態度という印象を与えてしまうことも否めません。


上の文章について言及します。

上記のことは、「ある文章がメタ的なものである」ことをさらに上の立場から指摘する、いわば「メタ・メタ文章」です。
メタ的な文章も文章である以上、その内容に対してさらに客観的な言及・分析を行うことができます。
とはいえここまで来るとメタ的な分析そのものに意味があることはほとんどなく、「メタ・メタ文章」は単なるユーモアか揚げ足取りでしかないことが多いです。


上の文章について言及します。

お察しかと思いますが、上の文章は「メタ・メタ・メタ文章」です。
そしてこのメタ・メタ・メタ文章の存在が示すように、この「メタ」というものは何重にも重ね掛けすることができます。
Twitterなどレスバトルが起こるような場面では、相手よりも優位に立とうとして相手の発言そのものを攻撃し、こういった「メタ」の重ね掛けが起こるようなことがあり得ますが、あまり有意義なものだとは思えません。
一方で、何度も自己言及的な発言を繰り返している状況の滑稽さを利用するために、ネタとしてあえて多重発言を繰り返すこともあります。


上の文章について言及します。

ひとつ上の文章に対してメタ的に言及するにとどまらず、その構造がどこまでも続きうることを示しています。
構造自体に言及することで客観的言及のいたちごっこから脱却することを狙ったものです。
堂々巡りの議論は見栄えが悪いですが、このようにその構造自体についても言及することによって、もうひとつ達観したような印象を与えることができます。


上の文章について言及します。

メタ言及を繰り返すといつまでも続いてしまう、ということ自体に対する言及についてさらに言及しており、皮肉なことにこの文章自体がさらなる堂々巡りが起こる可能性を示唆しています。
足し算を繰り返すと掛け算に、掛け算を繰り返すとべき乗になるように、この流れは延々と拡張することができてしまうものです。
「メタ」言及といえど、文章という媒体を使い続ける以上こうなってしまうのは仕方がないことなのでしょう。


上の文章について言及します。

ついに、言及し続ける流れそのものは延々と拡張するものであり終端を見つけることはできない、というひとつの結論にたどり着いてしまいました。
構造全体について述べてしまったため、これ以上のメタ言及は上記の内容よりも矮小化したものになってしまいます。
そのためこの記事はここで打ち切られるべきなのですが、言及し続けることは可能であるため終わることができません。
一体どうすればよいのでしょうか?


上の文章について言及します。

ここまで長々と記事を書いてきましたが、ここで初めて疑問文が登場しました。
こういった文章において疑問文が持つ効果というのは色々考えられますが、どうやら何か意見を伝えるための問題提起などではなく、記事の締めくくり方を見失った筆者が困っているだけのようです。


上の文章について言及します。

表現の意図に対する解説となっていますが、この解説を通して「筆者」の存在を押し出しています。
ここまで筆者はメタ言及の繰り返し構造について淡々と解説していただけですが、解説が限界に近付いたため、いわゆる「中の人」の存在、執筆する自分自身の心情を露呈させてしまったようです。


上の文章について言及します。

直前の文章について「執筆する自分自身の心情を露呈させてしまった」と説明しています。
しかし、これはある種のレトリックでしょう。
というのも、この記事は「直前の文章に異なる視点から記述を加え続ける」という構造であり、その構造は最初から筆者に意図されたものであるはずです。
すなわち「心情を露呈」させること自体も作者の意図通りであるはずなので、「させてしまった」と表現するのは本来適切ではありませんが、ここでは揶揄的でおどけたような印象を与えるためにこのような表現を用いているものだと考えられます。


上の文章について言及します。

最初の文章は事実を書き連ねているのに対し、2番目の文章はそこに対する感想や考察が加わっています。
段落を構成する各文の末尾は前後の文と異なるものになっていますが、これは同じ文末が連続することを避け、文章をなるべく読みやすいものにしようという意図によるものです。


上の文章について言及します。

これは元の文章の内容そのものではなく、文章の構造や文の役割、単語の意味について解説する目的の、いわゆる「メタ的な」文章です。
「メタ的」という言葉は様々な用例があり、正しい意味を一概に規定することは難しいのですが、ここでは「ひとつ上の次元から触れる」「客観的に見て述べる」というふんわりとした意味で使用しています。
こういった視点は自身の発言や行動を冷静に分析することに役立ちますが、当事者意識や感性の欠如、斜に構えた態度という印象を与えてしまうことも否めません。


上の文章について言及します。

上記のことは、「ある文章がメタ的なものである」ことをさらに上の立場から指摘する、いわば「メタ・メタ文章」です。
メタ的な文章も文章である以上、その内容に対してさらに客観的な言及・分析を行うことができます。
とはいえここまで来るとメタ的な分析そのものに意味があることはほとんどなく、「メタ・メタ文章」は単なるユーモアか揚げ足取りでしかないことが多いです。


上の文章について言及します。

お察しかと思いますが、それ以前に登場した段落と全く同じ文言が再び登場しています。
また、この記事は直前の文章について言及した文章を書き連ねていく、というものであるため、一度登場したものが再び登場したために全く同じ流れが繰り返されているようです。
すなわち、内容がループしているということになります。


上の文章について言及します。

ループ構造そのものに言及することでループを停止しています。
これによって現在の記事の状態を解説するとともに、ループ構造が長期にわたって続くことを防いでいます。


上の文章について言及します。

上の文章について言及しています。


上の文章について言及します。

上の文章について言及しています。


上の文章について言及します。

上の文章について言及しています。


上の文章について言及しません。


上の文章について言及します。

上の文章について言及していません。


上の文章について言及します。

上の文章について言及しています。


上の文章について言及します。

そろそろ「言及」の文字を見すぎて頭がおかしくなってきた頃かと思います。
「訯」という1つの漢字に錯覚してきた方もいるかもしれませんが、どうやらこの漢字は実在するようです。
意味について、信頼できるソースは見当たらなかったのですが、どうやら「無理やりこじつける」「無理に事をゆがめる」といった意味を持つものとして解説されています。
メタ言及とは所詮そういうものだ、ということかもしれません。


上の文章について言及します。

面白くないオチです。

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